ドリィムシリーズSS
"erase"
『世間にはクリスマスというものがあるらしいんだけど』
そうメールが入ったのが22日の事だった。
終業式も終え、夕暮れの暗い部屋で短い冬季休暇をさてどう過ごしたものか、とぼんやり考えていた矢先の事だ。
実の所、どうするんだろう、と考えてはいた。
あれから特別何か大きな進展や出来事があったわけでもないが、一応恋人同士、と言える関係ではあるだろうし、一緒に過ごすべきなのだろうか、と。
それにしてもこの遠回しな切り出し方が藤堂らしいな、等と思いつつ、『今の所予定はないけど』、と返した。
……そして、今に至る。
社会人である藤堂はあらかじめ休みを取っていたようで、昼から部屋へ邪魔することとなった。
もう何度か足を踏み入れているその場所はこんな日だからといって何か変わっているでもなく、ヒーターの稼働音が静かに鳴り響いていた。
なんだかんだで、直接顔を合わせたのは2週間振りだ。
「もしかしたらそんな気分じゃないかもって、切り出そうか迷ったんだけど」
ベッドの淵に座る藤堂の隣下に落ち着いた所で早々に藤堂が言う。
「いや、俺もどうするのかとは思ってたから」
「なら良かった」
言って藤堂は微笑を浮かべる。あの遠回しなメールの文章も気にしていたことが原因なのだろう。
「別に、何がしたいって訳じゃなかったんだけど。出来たら、会いたくて」
「……やっぱり、クリスマスだから?」
「そうだけど、ちょっと違う」
「そうなのか?」
「うん」
返事だけして藤堂は言葉を止めた。踏み込んだ理由までは話す気はないようだ。
別にそれは今に始まった事ではないのだが。
「……藤堂って、結構秘密主義だよな」
気が付けば口をついて出ていた。
「そんなことはないと思うけど」
「でも、何かと言わないよな。前に連絡取れなくなった時もそうだし、今だって」
「それは、単に話すことじゃないと思ったから」
「俺としては、もっと色々藤堂のこと知りたいし、話して欲しいんだけど」
「……うん」
「気を使ってくれてるんだろうなとは思うし、性格だろうからそこは受け入れる部分なんだろうとも思うんだけどさ。……やっぱりなんか遠慮されてるみたいで、ちょっと寂しくなる」
「……ごめん」
「ああいや……悪い、なんで久しぶりに会えたのにこんな話してるんだろうな」
小さく息を吐いて頭を切り替える。
こんな痴話喧嘩のような話をしに此処に来たわけじゃない。藤堂が多くは語らない人間なのも、不器用な性格なのも解っていたのだから、俺はそれを責めるべきではないのだ。
……無意識に、焦っている自分でもいるのだろうか。
空気を変えたくて話題を探す為に目を泳がせる。
と、ぱっと目についたものがあった。
「そう言えば前から気になってたんだけどさ」
「……うん?」
「テレビの前に置いてある消しゴム。あれ、ずっとあそこに置いてあるよな」
初めてこの部屋に足を踏み入れたのが大体一ヶ月ちょっと前位だっただろうか。 あの時も目についたのだが、単に使ってそのまま適当に置かれたのだろう、とその時は特に気にしていなかった。
だが、それから度々来る度に同じ場所に放置されている。
部屋の掃除は行き届いているように見える。元々無駄な物が殆どない部屋ではあるのだが、確か前に暇な時は掃除とかしてる、と言っていたからやはり片付けはきちんとされている筈だ。
それなのに、あの消しゴムが一向に片付かないのは何故なのだろうか。
「あれ、隆弘の」
静かに藤堂が言った。
「……そうなのか?」
返しつつ、話題の選択をミスったことを後悔する。
今触れることじゃなかったようだ。
「……隆弘が死ぬ前日、ここで宿題やってて。忘れていったから、次来たら返せばいいと思って適当に置いておいたんだけど」
「帰らず終い、か」
「うん、それで、なんとなく片付けられなくてそのまま」
苦笑いを浮かべて言う。
「いい加減片付けるべきなんだけど。……馬鹿だなって、思う」
自嘲気味に言う藤堂の言葉は十分理解できる気がした。
俺だって、変わらないでいられる物があればそのままにしたい。無駄だと解っていても、無意味な希望を見出したくなるだろう。
……というか、俺の場合はその結果が自殺未遂になった訳だが。
結局空気を変えようと思って振ったはずの話題でまた空気が沈んでしまった。
「……ごめん、なんか、駄目だな。さっきから暗い話ばっかりだ」
自分の行いに一方的に沈んでいると、藤堂が静かに動いた。
なんだろう、と思う間もなく、そっと背中から抱き竦められる。
突然の事に驚くも身動きは取れない。特別振り払う気も無いのだが、少々体が強ばるのを感じて落ち着かなかった。
以前より、近頃の方がこういったことに対して余裕がなくなったように思う。自覚が確かになってきたのかもしれない。
同性にこうされて感情を揺さぶられる自分には、まだ少し、慣れなかった。
「え、っと」
離れる気配の無い藤堂になんと言っていいのか解らずそんな言葉を漏らす。
「……今日、会えて助かった」
「……助かった?」
助かった、とはどういう意味だろう。
「さっきの、理由」
「……ああ」
「うちでは、クリスマスはちょっと特別な日で。あんまり家族仲が良くなかったって話は前にしたと思うんだけど」
「ああ、言ってたな」
耳元で静かに藤堂が話す。どんな表情をしているのかは解らなかった。
「今日だけは、絶対に家族が揃う日だった。誰も何も言わなくても、絶対に。家族なんだな、って唯一実感出来た日で」
「うん」
「……それが叶わなくなったのは篠崎君も一緒だし、後ろめたさもあったんだけど」
「……」
「また、自分のエゴで振り回した。ごめん」
「会いたいと思ってくれたんならそれでいいよ、俺は」
そういった穴埋めの関係が切り離せない部分だというのは薄々感じている。何も今更謝られることでもない。
それに、
「何度も言うけど、俺だって藤堂の存在には凄く救われてる。藤堂が連絡しなくても、多分、俺が連絡入れてたと思う」
「……うん」
俺がこういう事を言うと藤堂は大抵安堵したような返事をする。何となく、その声を聞くのが好きだった。
「……っ!」
と、急に首元にそっと唇を落とされて緊張の解けかけていた体が再び強ばる。
丁度気が緩んでいたタイミングだった所為か、軽く触れるだけのそれに酷く驚いてしまった。
「……ここ、弱い?」
動揺を隠せない俺に淡々とした調子で藤堂が訊いてくる。その余裕が羨ましくもあり、ちょっとだけ悔しくもある。
「いや、今のは不意打ちだったから」
「別に驚かせるつもりはなかったんだけど」
特に変わった様子もなくそう言って藤堂は俺を開放する。
思わず首元を触って落ち着けるように小さく深呼吸した。
まだ少しだけ緊張している。
「……何か飲む?」
「ああ、サンキュ……」
俺の返事を聞いて藤堂は冷蔵庫へと向かう。
慣れてるんだな、と後ろ姿を見ながら思う。経験の差なのだろうか。
もう一度だけ小さく深呼吸して、窓の外へと視線を移した。
視界に広がる冬の空と、あまり馴染みのない景色。
……想像もしていなかった現状。だが、これが悪いことだとは、思わない。
「ケーキ位は、後で買いに行こう」
二人分のコップを手にして戻った藤堂が、俺の前に一つを置きながら言った。
「別にそういうの無くても良いけど」
「折角だから。……それとも、甘いのは嫌い?」
「いや、好きだけど」
「……甘党?」
「……まあ、うん」
「覚えておく」
どことなく楽しそうに微笑を浮かべながらそう言うと、藤堂はテレビ前の消しゴムを引き出しへしまった。
それを見ていた俺の視線に気がつくと、何となく後ろめたい、と今度は苦笑いを浮かべる。
……何も悪いことは、無い筈だ。
二人だけの他愛ない時間を過ごしながら、少しだけ、去年の同日の事を思い出していた。
それはもう戻らないものだ。いつまでも引き摺っていたって仕方がない。
その後二人で近所のケーキ屋へ赴き、尽く藤堂が物事に対して希薄なことを思い知ることとなる。
奢ろうとする藤堂の申し出を制止して、割り勘で購入後部屋へ戻った。
……きっといつか記憶は塗り重ねられて消えていく。忘れたくもないが、今は、忘れることを許して欲しかった。
テーブルへ箱を置く際にテレビの前のスペースが目に入る。
消え去った小さな存在が、少しだけ胸に閊えた。
誤魔化すように再び窓の外を見る。
そうして変わり始めた空の色を見て日の短さを実感しつつ、俺は、食器を用意する藤堂の手伝いへと向かった。
2011 12.22
過去に公開していたドリィムシリーズのSSです。
左のアンカーメニューより、カップリング別、作品個別に選択できます。(※PCサイトのみ)
作品のネタバレを含みますので、ご注意ください。
メルト
12月25日。
その朝、朝日は白く染まる景色を照らして窓の外を輝かせていた。
肌寒さで目が覚めた一夜は、部屋の中にいるもう一人がまだ眠っていることを確認すると、薄暗い部屋の中、半開きになっているカーテンの隙間からその光る景色捉え、どうりで寒いわけだ、と納得した。
昨日の夜、クリスマスだしたまにはイルミネーションでも、と二人で出かけた帰りには、辺りはすでに雪で白くなり始めていた。だからきっと、明日の朝には積もっているのだろうと、一夜はそう思っていた。
そうして案の定出来上がった、普段なら特別でもなんでもない雪景色。なのに今日は、なんとなく心が躍っている。
その原因はきっと今、好きな人の部屋でこうして眺めている所為なのだろうな、と、一夜は改めて自分の想いを実感すると、視線をすぐ傍の眠る人物へと移し、僅かに口元を緩めた。
「……積もってる?」
と、そんなタイミングで、寝起きの冴えない声が一夜の耳に入る。
「真っ白。……ごめん、起こした?」
「大丈夫」
身を起こしながらそう答える声は相変わらず力ない。その人物が目覚めに時間がかかることを、一夜はもう十分に把握していた。
「直人さん、ほんと寝起き弱いですよね」
ベッドの上で上半身を起こしたままぼんやりしている年上の人物に、一夜は苦笑いで言う。その言葉に、うん、と弱々しい声が返った。
「目覚ましにさんぽとか」
「……はしゃいでる?」
「いや、なんとなくそんな気分で」
「……いいよ、支度する」
言って、ようやく直人はベッドから移動する。一夜も習うように立ち上がると、身支度を始めるために動き出した。
「真っ白だな」
車の殆ど走っていない道路へ出て、まだ汚れの少ない雪景色を見ながら一夜がどこか楽しげに言う。
直人はそんな一夜の言葉に「うん」と静かに返しながら、やっぱり少しはしゃいでる気がする、と、ひっそりと微笑を浮かべた。
そうして隣を歩く年下の恋人の姿に、なんとなく、去年失った弟の面影を見出し、同時に月日の流れを実感した。
悲惨な事件に巻き込まれた末に命を絶った、自身の弟。雪が降った日は仕事から帰ると、ベランダの淵に小さな雪だるまが出来ている事が多かった。
もう、そんな光景が自分を出迎えることはない。だが、自分は今隣にいる少年のおかげで、それを憂うことなく生きることができている。
直人はほんの少し寂しさを覚えながらも、それ以上に一夜が存在している現実を噛み締めていた。
今でこそ楽しげに浮かれているが、一夜の家族も皆去年の事件で亡くなっている。その時期に一夜が見せていた空虚な表情も、今だ直人の記憶には残っている。
だからこそ直人は、一夜がこうして自分のそばで笑顔を見せてくれることにいつだって安堵を覚えた。
「……雪が降るのそんなに嬉しい?」
珍しく少し前を歩く一夜の様子を見ながら、直人は問う。
「いや、雪が嬉しいっていうか……昨日と今日は色々特別だっただろ」
「まあ」
言われてみれば思い当たる理由に、直人も同意する。
この日一夜がいつもよりも楽し気なのには、直人と過ごしている他にも理由があった。
普段、直人は例え翌日が休日であろうと、部屋へ泊まることをなかなか許可してはくれなかった。
それは一夜が受験生だから、という理由や、あまり外泊をさせるべきではない、という所以よりは、一夜が学生の内は健全な付き合いをする、という約束の意図が大きかった。
直人は一夜のことをとても大事にしているが、だからといって、絶対に間違いを起こさないと約束できるわけではない。
一夜もそれは十分理解しているが、それでも、不満を覚えることが無い、といえば嘘だった。
そんな中、一夜が今年も期待はせずに要望だけ出してみたところ、何故か今回は特別に、クリスマスという名目と、少し勉強を見てもらうという理由で、泊まりの許可が降りたのだ。
大きな何かは無くても、ただ二人で同じ空間、長い時間を過ごせることが、一夜は純粋に嬉しかった。
それから二、三、静かな会話を交えながらいつもと違う道を歩き、二人はコンビニへ差し掛かった。
なにか暖かいものでも、と直人が言うと、そのまま揃ってコンビニ内へと足を踏み入れる。
クリスマスソングが掛かる店内は、朝の忙しない時間帯のせいか、人が多かった。
その姿は買い込みをしに来ている人、クリスマスなど関係なしに仕事へ向かうらしい人など、様々だ。
そんな中、ふと、直人が一人の男性を見て目を留めた。
「……?」
気づいた一夜がその視線の先を追う。
短い黒髪が少し乱れているのは、ヘルメットをしていたせいだろうか。
黒いライダースジャケットに身を包んだその男性は、レジの列に並び、会計待ちをしていた。
遠目からみた印象では、明るく気さくなイメージではなく、落ち着いた、気難しそうな男性、といったものだ。
……自分よりは大分年上の男性だ。30代くらいだろうか。
一夜は色々想像しながら、誰なんだろう、とその姿に疑問を抱く。
「……知り合い?」
浮かんだ疑問をそのまま直人に問いかければ、直人ははっとした様子で男性から目をそらした。
「解らない」
質問には淡々とそんな言葉を返して、直人はホットドリンクの立ち並ぶ棚から適当そうに飲み物を一つ取った。
一夜は直人の返答に、むしろその答えがよく解らない、と内心で不満を抱きながら、同じようにミルクコーヒーを一つ手にする。
その際盗み見た直人の表情はいつも通りで、そこから何かを察することはできなかった。
他に買うものも特になく、二人は会計へ向かう。
先程の男性の姿は、もう店内にはなくなっていた。その代わり、店先の駐車場でバイクの側にいるのを、一夜は帰り際に見つけた。
ちらりと横の直人を見てみると、同じ様に、煙草を吸うその姿に視線を向けていたのが確認できた。
ただ、直人が何を思って彼を見ているのかまでは、一夜には解らなかった。
短めの散歩から部屋に戻り、少し遅めの朝食を取ってから、二人でただ時間を過ごす。
そんな中、一夜は会話をしながらも、先程のコンビニでの出来事がいまだ気になっていた。
直人の方はと言えば、相変わらず静かに淡々と、一夜が投げた会話への応対を繰り返している。
一見いつも通りの光景だが、一夜はどうも、直人の受け答えにも落ち着かないものを感じていた。
直人は普段から口数も多くはなく、表情にあまり大きな起伏も無いせいで、心理の変化が解りにくい。
それでも、一夜は一年以上直人と深く付き合ってきたこともあり、少しはその変化も敏感に読み取れるようになってきていた。
つまりは、現状、一夜から見て直人の様子はどこかおかしい。
そして多分、原因はあの男性だ。
「……さっきの男の人、やっぱり知り合い?」
結局腑に落ちなさに耐えかねて、一夜は改めて問いかける。
返答はすぐに無かった。
「あ……触れちゃいけないことなら、ごめん」
もしかしたら凄いプライバシーに関わることなのかも、と、一夜は慌ててフォローする。
「昔、男と付き合ってたって、話したっけ」
だが、直人は先程は解らないと濁した答えを、今度はその言葉で返した。
直人のその話は、一夜も聞いたことがあった。本人が学生の頃の話だっただろうか。年上の、大学生と付き合っていたことがある、と、確かに以前話してくれたのを、一夜は覚えている。
その事を思い出し、あ、と一夜は思い至る。
「……もしかして、その人?」
遠慮気味に問うと、多分、と曖昧な言葉が返った。どうやら確信には至らないようだ。
「でも多分、そうだと思う。バイクに見覚えがあった」
そう言えば、帰り際にもまだあの人がいた、と一夜は記憶を掘り返す。
バイクの隣で煙草を吸っていたその人を、確か、帰りも少し気にしていたと思う。
「もしかして、俺に気を使って声かけられなかった?」
なんとなく思いついた可能性を投げかけてみる。
「少し気になったけど、別に。……自然消滅だったし、声かけても野暮でしょ」
「まあ、そうか……」
詳しい経緯は解らないが、多分、本当に自然に関係が消滅したのだろう、と、一夜は直人の様子から察する。
それでも久しぶりに見かけた姿が気になったのは、なにか、その頃に思い残りがあったからではないのだろうか。
「未練とかは別にないんだけど。ただ、あの頃のことを少しだけ思い出して」
言って、直人は緩い苦笑いを見せた。その様子から察するに、いい思い出としては残っていないのだろう。
そんなことを考えながら、一夜はどうして朝からこんな会話をしているのだろう、と我に返る。だが、一度その話題に触れてしまうと、色々と気になる部分が湧いて出てくるのも確かだった。
あまり、本人の過去の話は聞いたことがない。そもそも、なんで年上の男性と付き合うことになったのだろうか。
自分の場合は、決していいものとは言えないがそれなりの経緯があった。まさか、同じような事があったわけではあるまい。
そんなことを思いつつ、直接その疑問を投げかける。
「……若気の至りで」
「……」
そして返ってきた、本気か冗談かもよくわからない言葉に脱力する。
「若気の至りって……」
「中学生の頃だし、そういう時期でしょ」
「かもしれないけど、それにしてもその理由かよ」
「家のこととか、結構色々とあったから」
「……もしかして、学生時代結構荒れてた?」
「荒れてたら、大学の話は来なかったと思う」
「そうか……」
新たに見えたような気がする一面に、一夜は改めて目の前の人物をまじまじと見る。
当時のことを思い返しているのか、その表情は、どこか遠い目をしていた。
「……体の関係っていうのがしっくりくるかも」
「は?」
そして突如吐き出された思いもよらない言葉に、一夜は思わず目を見開いて生返事をしてしまった。
「いや、え?」
「冗談」
「……」
さらっと繰り出される言葉に、再び脱力する。直人の表情はとぼけたように緩いが、正直なところ、一夜にはそれが本当に冗談なのか解らなかった。
だが、気を取り直して新たに浮かんだ疑問を投げかける。
「……でも、そういう付き合いはあった?」
おずおずと遠慮がちに、だが興味ありげな面持ちで聞く。
「まあ」
返ってきたのは、短い肯定の言葉だった。何かを含んでいるようにも聞こえる。
「そうか……」
なんとなく、一夜は言葉に詰まった。改めてそういう目線で相手を見れば、次第に妙な緊張を覚える。
一夜は自身の体温が上がるのを感じながら、別の話題を切り出そうと思考を巡らせた。
「……」
「……なんだよ」
そんな一夜を見る直人の、意味深な視線に一夜が動揺していると、ゆっくりと、その体が一夜へ近づいてきた。
なんとなくその後の流れに予想がつき、一夜は咄嗟に気を鎮めようとするも、近くなる距離に動揺するだけで、結局気持ちを落ち着けられないまま容易く口づけをされてしまった。
直前に交わしていた会話のせいで、もう何度も交わしているその行為に、いつも以上の緊張が伴う。
この高揚から早く解放されたいと思うのと同時に、もっと触れられたいような、近づきたいような、奇妙な矛盾が一夜を襲った。
「……、」
直人は一度唇を離すも、またすぐ何度か軽いキスを繰り返して、今度こそ満足したのか、ようやくそっとその唇を開放した。
「……この話の流れでそういうことするなよ……」
一夜は早鐘を打つ自身の鼓動を感じながら、期待するから、という言葉を飲み込みつつ、紅潮した頬で訴える。
「なら、あまりそういう顔はしないこと。……こっちも困る」
言うだけ言って、直人は再び離れていった。
一夜はどんな窘め方だよ、と内心で反論しながら、改めて落ち着くために小さく息を吐く。こんなことがある度に、慣れてるんだな、と実感させられた。
そして、あの男性の存在により、今日その実感はさらに輪郭を増した。
一夜の脳裏に数時間前に見かけた男性の姿が浮かぶ。なんとなく、過去に関係があったと言われれば解らなくもないような気がした。
「じゃあ、次は、篠崎君の恋愛遍歴を」
「解ってて言ってるなら嫌味だよな……」
しれっとした様子で切り出した直人の言葉に、一夜は様々な不満をまとめ込んでそう返した。
二人で過ごす、二年目のクリスマス。
特に大きな出来事はないまま、和やかに時間は過ぎていく。
一夜はほんの少しだけじれったさを覚えつつも、今はこれでいいのだろう、と妙な納得を抱いて、その部屋の空気に身を任せていた。
降り積もった雪も、きっと来週には溶けている。
—
2014.12.24
2015.12.9 加筆
遭遇
予想外の偶然だった。
二十一時を過ぎた駅前。
まさか、こんな人通りの多い場所でこんな時間、こんな偶然に遭遇するとは、俺は全く予想していなかった。
そして見知らぬ女性が腕に絡みついている直人さんもまた、同じように想像なんてしていなかったと思う。
確かに、直人さんが住んでいるのはこの近辺だ。街中で会うことがあってもおかしくない。
……そうだ。俺が本当に想像すらしていなかったのは、『直人さんに女性が絡んでいる状態で遭遇する』ということだ。
飛び込んだ目の前の事実を再確認しながら、俺は言葉を探すように視線を落としている直人さんをじっと見つめた。
お互い、事前に約束し合ったかのように正面から鉢合わせになって、思わず歩みが止まってから数分が経っていた。
俺は混乱で何から言っていいのか解らず、直人さんもずっと黙りで、ただ一人、直人さんの横で長くウェーブのかかった髪をサイドテールにした彼女だけが、意味のわからなそうに俺と直人さんを見比べていた。
彼女が不思議そうなのも当然だと思う。普通なら、偶然だな、と親しげな挨拶をして、早々に終わるシチュエーションだ。
けれど俺たちは、不自然にお互い、現状の対応へ手こずって立ち尽くしていた。そしてそれは、俺と直人さんは同性だが、キスを交わすような、所謂恋人同士の関係だからだった。
仮にも恋人であるはずの人物の腕には、女性が絡みついて、本人は俺を目の前にしてもそれを放すこともせず、何かを言おうと模索している。
……ああそうか。俺、遂に修羅場に遭遇してるのか。
暫くしてようやくそんな考えに思い至るも、すぐにいいや待て、と考え直す。何事も、簡単に決め付けるのは良くないはずだ。
直人さんも先程から何も言わないが、多分想像外の出来事に混乱してるのだと思う。特に信用関係の事柄においては、普段平然と嘘をつく割に本当に危ない時には以外と弱いことを、最近は何となく悟っていた。
多分、動揺してくれてる方が正解だ。本当にやましいことなら、逆にもっと冷静に対処されていると思う。
それに、社会人の直人さんには仕事の付き合いだとかも色々あるだろう。そう考えれば、女性と二人きりなのはおかしい事じゃないはずだ。
だとしても、結局は一体何でこんなことになっているんだろう、という話なのだけど。
「ねー直人君どうしたの? この子誰?」
進展のない俺たちに疑問が頂点へ達したのか、大人びた外見通り、女性にしては少し低めの声で彼女が言った。
聞きながら更に絡みついた体もモデル並にスタイルがいい。こういう人を色気がある、というのだろうか。
なんとなくモヤモヤとした物を感じながら、俺は彼女を改めて観察する。
それにしても、妙にふわふわした喋りの調子といい、座りがちな目といい、この人、多分かなり酔ってる。世話になってる叔母さんの酔い方にそっくりだ。
そこで何となく状況の予想が付くも、きちんと本人の口から説明が聞きたかった為、俺は敢えて何も言わずに再び直人さんを見た。
「……知り合い、だけど」
ずっと考える素振りで止まっていた直人さんは、彼女の質問に急かされてやっと困ったように答えた。
知り合い、と言われるのも大分他人行儀に思える。せめて友達じゃ駄目だったんだろうか。
「あっははは! 知り合いなのは見ればわかるってばー! どーいう関係の子なのって聞いてるのー」
彼女はそれだけの言葉にもけたけたと楽しそうに続けた。やはり酔のテンションのようだった。
「……逆に、二人はどういう関係なんですか?」
煮え切らない直人さんの態度に、俺も遂に気になっていたことを聞き返した。
予想は付いているから、その考えが正しいかを確認したいんだけど。
「ライブハウスの関係者の人で、あお」
「直人君の彼女候補ですっ!」
「……彼女大分酔ってるから、間に受けなくていいよ」
説明を遮って勢いよく飛び出した発言へ、直人さんは少しだけ疲れた様子を見せてフォローを入れた。
彼女についてはやはり予想通りだ。どうやら仕事仲間の人だったらしい。
一先ずは、苦い直人さんの対応から言葉通り一定以上の関係はなさそうだと把握しつつ、頷いて彼女の反応を待った。
「ええー、素面だってば。ていうかこの子は結局どういう関係なの? 結構年離れてるよねえ?」
言って、彼女は座った目でまじまじと俺を見た。
年の差が気になるのか、知り合いという返答では納得してくれないらしい。
或いは遭遇がてら、妙な沈黙を作ってしまったせいもあるのかもしれないけど。
……それにしても。
ちらり、と直人さんを見る。直人さんは重なる彼女の質問へ、再び適切な回答を探しているようだった。
彼女候補、って言われるということは、少なからず彼女は今、直人さんが誰かと付き合ってることは知らないんだな。
まあ、同性と付き合ってるなんて声を大にして言うことじゃないだろうけど。
でもそれが俺だとは言わなくても、恋人がいること位は言っておいても良いんじゃないだろうか。……そうじゃないと俺が複雑なだけだけど。
今だって特にそのへんは主張してないし。というかずっと絡んだまんまだし。妙にじゃれてるから通行人にも気にされてますよ直人さん。
なにか言えない理由でもあるんだろうか。それとも単に言いたくないだけだろうか。
直人さんは俺と目が合うと、無言の訴えを悟ったのか返答を待っている彼女を横目に見た。
そうして小さく息を吐くと、改めて、ずっと直人さんを見つめていた彼女へと向き合った。
「今度ゆっくり説明しますから、今日は早いところ帰りましょう」
「ええー?」
期待はずれの言葉に、彼女は眉をハの字にして明白に不満な声を発した。
「篠崎君も、今度改めて説明するから。今日はもう遅いし、早く帰ったほうがいいと思う」
「え……、あ、はい」
その場凌ぎの対応には俺も小さな蟠りを覚えつつ、困らせたくもなかった為、素直に受け入れることにした。
「ごめん、気をつけて」
そう言うと、直人さんは女性と共に再び歩き出そうとする。
だが彼女の方は部屋で飲み直そう、と駄々を捏ねて、中々動こうとしないようだった。
それを見て、俺も動き出そうとしていた気持ちが変わる。
別に、改めて説明なんてされなくても浮気だなんて疑ってないし、酔った彼女を送っている最中なのであろうことはすでに察しが付いている。
だけど。
なんで、そういう簡単なことすら話してくれないんだろう。
それに、俺のいないところで、彼女にはなんて説明するつもりなんだろう。
知り合い、って説明されるのは、なんか、何でもない人、って言われてるみたいで。
世間体とか、あるのは解るけど。
また、直人さんの中にだけ存在する『見えない何か』に、弾き出されているような気がする。
「あの……俺、一応、直人さんの恋人です」
「えっ?!」
彼女の驚いた声の後に、直人さんの僅かに見開いた目が視界に入った。
「……、」
だが、何より驚いていたのはすぐに我に返った自分自身だった。
「え、あ」
いきなり何言ってるんだ俺……!
自分の行いで急激に顔が熱くなるのを感じる。
「いや、えっと、今のは……」
「やだ直人君また男の人と付き合ってるの?!」
「え?」
突如彼女が声を荒らげて言った言葉に、今度は別の意味で驚いた。
「……蒼子さん、ここ駅前だから」
ボリューム下げて、と言いたげに、直人さんはあくまでも冷静に対応する。
今の声で通行人が何人か好奇の目を向けた気がするけど、大丈夫なんだろうか……。
というか、また、って。それに蒼子って名前、どこかで聞いた。
どこで聞いたんだろう。
……。
フラッシュバックのようにいつか見た光景が脳裏をよぎる。
……ああ、"あの時"だ。
"あの場所"でのライブの日。
あの日は実際に見なかったけど、蒼子さんってこんな人だったのか……。
「えぇー、しかも年すっごい離れてるよねえ? 直人君の守備範囲ホント謎」
言いながら再び間近で見られて、思わず身を引いてしまう。
直人さんもその発言には、流石に返す言葉に困っているようだった。
「キミ、ごめんねー、さっきのアレあたしの持ちネタだから、気にしないでね!」
「えっ……いや……」
「ていうか直人君、それならあたしじゃなくてこの子送ってかなきゃダメじゃん! あたし大丈夫だから! 素面だし!」
「……送ってけって言ったの蒼子さんだったと思うけど」
「馬鹿ー! 浮気者ー!! 知ってたら頼まなかったっつーの! じゃああたし帰るから! ばいばい!」
一方的に宣言すると、蒼子さんは早々に直人さんのそばを離れて人混みの中へと消えていった。
なんというか、自由な人だ……。
「……」
直人さんをみやれば、去りゆく姿をどこか心配気に見送っていたが、その姿が完全に見えなくなると、すぐに俺へ向き直った。
「……大丈夫なんですか、彼女、一人で」
「ちょっと心配だけど、今追いかけても怒られる」
「そうなんですか……」
なんか、妙なインパクトのある人だった。
「あ……その、すみませんさっきの、いきなりあんなこと言って」
「うん、驚いた」
「ですよね……」
「一応言うけど、浮気じゃない」
「それは解ってる。ただ、恋人がいるってこと自体言ってなかったみたいだから、なんでかなって」
「……」
俺の問いに、直人さんは沈黙を返した。
とたんに、夜の駅前の喧騒が耳に流れ込む。
「隆弘の真似事をしてみようかと思って」
「なんですか、それ」
「恋人がいるって話すと、相手の中で実際とは違う勝手な想像されるでしょ」
「……それが嫌だったってこと?」
「変な理由だと思うけど。……それに多分、明日には橋元さんに知られてる」
「あ……成程」
話のタネにされるんだな……。
「すみません、本当」
「元はといえば俺が悪いから。……バス停まで送ってく」
それ以上有無は言わせないというように、直人さんは歩き出した。
何となく釈然としないまま、俺もそれに続いた。
バス停へ着いても、目的のバスが来るにはまだ少し早い時間だった。
二人で並んで、空いた待ち時間を過ごす。
「そういえば、篠崎君はこんな時間まで何してたの」
「あ、単に買い物に来てただけです。色々見てたらこんな時間になってて」
「そう」
「直人さんは仕事の帰りですよね?」
「うん、何人かで飲んでたんだけど、蒼子さんが帰るから送れって言い出して」
「気に入られてますよね」
「どうだろう」
いつかも聞いたようなやりとりで、会話が途切れる。
事件の後、退院してからも大分経って、お互い生活は落ち着いているが、なんだかんだで会う機会は多くもなかった。
今日は偶然とは言え、短い時間でもこうして隣に居られることが嬉しい。
「……篠崎君は」
「はい?」
「恋人ができた、って、周りに言ってる?」
「え……」
少し意外な質問だった。俺がどうしてるかなんて関心がないと思っていたのに、さっきそんな話をしたから気になったんだろうか。
伺って見た直人さんはどうというわけでもなく、平然とした表情で俺の返答を待っている。
「俺は……聞かれたら、居ることくらいは言おうと思ってるけど、皆俺があんまりそういうの興味ないと思ってるから、聞かれもしない感じ」
実際、今までこういったことには積極的じゃ無かった。
多田野のやつだけ少し感づいている気がするけど、特別話題に触れることも今の所無い。
「なら、写真を見せろとか、どういう人かと聞かれたら?」
「え、それは流石に誤魔化すけど……、なんでだよ」
「いや……」
直人さんは短く吐いて、そのまま言葉が止まる。
なんだというのだろう。
「なんだよ」
「大丈夫なんだなと思って」
「大丈夫? ……同性と付き合ってるってことがか?」
「学生の時って、特に人と違うことには敏感だと思うし」
「あー……、だって、今更否定してもしょうがないだろ」
「……」
直人さんの注目した視線を感じながら続ける。
「正直に男と付き合ってるって言うのは流石に気が引けるけど、それ自体は別にそうとしか思ってないな、俺」
「……うん」
「それに、あんまり否定すると、直人さんの事まで否定する気がするし」
俺は自分の意志で相手を好きになったのだし、例えそれが常識的にはおかしい事だとしても、俺自身の感情がおかしいことだとは思わない。
話せる相手には正直に話せばいいと思うし、なにも根底からすべて包み隠すことはないと思う。
「……ごめん」
何故か謝られて、俺は思わず直人さんを見る。
「いや、謝られる理由はないと思いますけど」
「俺は隠してたから」
「それは、だって、直人さんにも事情があると思うし」
理由はさっきも少し聞いた。
それだって別に、勝手なイメージを作られたくないというだけで、俺と付き合っていることを隠したい、という理由じゃなかった。
「……うん」
直人さんは俺の発言に視線を逸らすと、苦笑を浮かべながら頷く。その反応が気になった。
……なんだろう。なにかあるんだろうか。
だとしたら、気になるのは、
「……直人さんが言えなかった理由って、他にもまだあった?」
その問いに、直人さんはすぐには答えなかった。
ただ、どこか暗い瞳で考え込むように地を見ている。
「俺、またうまく誤魔化されてた?」
促すように再度問う。
できるだけ早く、直人さんの白い嘘を見抜けるようになりたかった。
騙されることが嫌だからじゃない。直人さんが嘘を重ねるだけ、辛い思いを抱えるのは直人さんだからだ。
せめて俺相手でくらいは、そんなことをさせたくはなかった。
たとえ直人さんが、自分のエゴでやっていることだから気にするなと言ってもだ。
「……誤魔化し、ってほど、嘘でもないんだけど」
観念したのか、ゆっくりと喋りだす。
「君のことを恋人というのが、気が引けて」
「なんでだよ」
この人はまた、今更こういうことを言い出すんだ。
「何となく、巻き込んでしまった気がしてたと、いうか」
「……」
「篠崎君の気持ちを疑うわけではないけど、安易に恋人と言ってはいけないような気がしてた」
立場的なものも含めて、と、最後に付け加える。
「言いたいことはなんとなく解ったけど」
つまり、恋人と言う前に俺は事件の被害者で、一学生で。
直人さんの中では、"恋人という対等な関係"の前に"保護対象"というような感覚もあったのかもしれない。
「……俺が、同性と付き合ってる事もコンプレックスに感じてると思ってた?」
もしかして、と聞いてみる。
「あまりそういったものを気にする方じゃなさそうだったけど、実際に同年代の輪の中に居ると、感じるものもあると思うから」
「だから、俺が気にしてると思って、安易に自分から恋人だって言えなかったのか」
「それも、理由にあった」
「それならさっきの、言った時は恥ずかしかったけど言って正解だったな……」
じゃなきゃ、多分この先も俺が本当は気にしてるんじゃないかと、直人さんはいらぬ気遣いをしていたのだろう。
「気を使わせたのは悪かったと思うけど。……なんで本当の理由は誤魔化したんだよ」
「篠崎君の気持ちを否定する行為だったから」
「否定されたとは思わないけど……、拒絶されたわけじゃないし」
俺はちゃんと直人さんの恋人であることを受け入れて、自覚して付き合っていたけど、直人さんは必ずしもそうじゃなかった。でも直人さんが複雑に考えてしまう理由は解る。
不器用な優しさの持ち主だと、本当に思う。
「ごめん、今回は本当にただの保身。馬鹿みたいな理由だったから」
「気遣ってくれたんだろ。ごめん、俺も責めるような言い方して」
「実を言うと、さっきの恋人発言、少し安心した」
「安心?」
「重荷になってることは無さそうで」
「……直人さんがいなかったら、俺、今ここにいないんですよ」
思わず苦笑が浮かぶ。流石に、直人さんのこの思考回路はもう癖なんだと解っているけど。
直人さんは俺の言葉に、自嘲にも似た微笑を浮かべて頷いていた。
なんとなくもっと側へ近づきたい気がするも、流石に駅近くの今の時間はまだ人が多い為、思いとどまる。
少しだけ物足りない。だけど今は、予定のなかった日にこうしていられるだけで満足するとしよう。
俺も蒼子さんのように女だったら、こんな柵は抱えずに済んだんだけどな。
数分前の光景を思い出し、我ながららしからぬことを考えているうちに、遠方からは目的のバスが姿を現していた。
「また今度、連絡する」
「はい、じゃあまた」
見送られながらバスに乗り込む。
遭遇時こそ驚いたものの、終わってみればいい偶然だったような気がする。
……この先も、俺と直人さんはこんな風にして遠回りしながら距離を縮めていくのかもしれない。
やがて発車したバスは、帰るべき場所へと向かっていく。
次に会う時は直人さんにまた一つ近づけているような、そんな気がしていた。
—
2016.0511 加筆修正
"knife"
世間では、夏休みも終わりが見えてくる頃。
蝉の声に耳を方向けながら、一夜は人を待っていた。
約束の時間まではまだ5分程ある。今日の待ち人は、いつも不思議なほど時間通りにやってくる人物だった。
それを十分解りきった上で、この日一夜は早めに家を出た。
別に会うのが楽しみだったというわけではなく、単に相手より先にいないと落ち着かないという理由だった。
とはいえ、久しぶりに顔を合わせることに全くなにも思わないわけではない。
重厚な入道雲を見つめながら、何を話そうか、と、考えを巡らせた。
しかしそうして暫く話題を探してみるものの、きっとまた会話のペースなど相手の思うままにされてしまうのだろうと思い至ると、
とたんに無意味なことに思えて一夜はすぐに考えることをやめてしまった。
「篠崎」
夏の暑さで半ばぼんやりしかけていた所に、凛とした呼び声が飛び込み一夜ははっとした。
声の元へ視線を向けると、すっと通った目元に眼鏡をかけた一人の青年が、涼し気な表情で立っていた。
端整な顔つきと落ち着いた服装から、やけに明るい髪色を除けば一見真面目そうな印象を受ける。
あまり見慣れない私服姿に久しぶりさも相まって、一夜は若干の戸惑いを覚えた。
誤魔化すように時計を確認すると、やはり、時間通りの到着だ。
「御影っていつも時間きっかりだよな」
言いながら、一夜はあらためて御影と呼ばれた青年と対峙する。
御影は一夜の言葉に愉快そうな表情をすると、遅刻はしていないだろう、と冗談気に言った。
二人が向かう先は市立図書館だった。
特別用事があったわけではない。だが、行き先を決めたのは一夜だった。
大学生である御影と受験生である一夜では、やはり時間も合い難く顔を合わせる機会というのは減っていた。
互いに筆不精なのか、二人の間にメールのやりとりも殆どない。
それでも互いの間に自分たちは恋人として付き合っているのだという認識はあり、それが暗黙の了解でもあった。
夏休みに入れば多少時間は合うようになる。
ならば久々に顔を合わせようか、という話になった。
希望の場所はあるか、という御影の問いに、一夜ははじめ「涼しい場所ならどこでも」、という返事をした。
だがそんな曖昧な返事で明確な行き場など決まることはなく、次に一夜は「御影の部屋に行ってみたい」、と好奇心から希望を出した。
しかしそれも敢無く却下され、半分は冗談の思いつきで言った「図書館とか」、の返答が採用されることとなった。
宿題も片付け終えている一夜に、図書館へ行く理由は無い。
御影は自分の家以外ならどこでも良かったらしく、一夜も結局それ以上の代案を要求することはしなかった。
「……何で駄目だったんだ、御影の家」
図書館への道のりを歩きながら、一夜は気にかかっていたことを問う。
一夜にとって御影はいまだ実態の掴みきれない部分も多く、私生活に近い部分には興味も大きかった。
「曰くつきなんだ」
「……」
流石に一夜も今更その言葉を真に受けることはない。冗談ではぐらかされたというのは解る。
「篠崎は悪いものに憑かれやすそうだからな」
「悪かったな。……あんまり他人を家に上げるのが好きじゃないとか、そういうの?」
「大方そんなところだ。特に面白いものもないから来る必要もないと思うけどな」
「いや、そこはやっぱり、気になるし」
「多分、大体篠崎が想像してる通りだよ」
「想像つかないから気になってるんだけどな……」
戯れ程度にそんな会話をしているうちに、目的地の建物へ到着する。
「……あのさ。今更だけど本当にここでいいのか?」
入口の前で足を止めて一夜が問う。
「俺は構わないよ、丁度借りたい本もあった。……篠崎が嫌なら移動しても構わないけどな?」
まるで一夜の優柔不断さをからかうかのような調子で御影が言う。
「いや、俺も別にいいんだけどさ」
「久々に本に囲まれて話をするのもいいんじゃないのか」
「……」
一夜の沈黙を了承と受け取ったのか、御影が先陣を切って歩き出す。
若干強制的なものを感じながらも呼び止める理由もなく、一夜もそれに続いて建物内へと足を踏み入れた。
御影は早々に一冊の本の貸出手続きを終えて、人気の少ない、片隅の席へ向かった。
迷いのない足取りは、度々この施設を利用しているであろうことを窺わせる。
特に借りるものも思いつかない一夜はただ御影について歩いていた。そうしていつかのように、向かい合う形で互いに席へ着く。
まるでその場所に居座るべき人物が決まっているかのように、その周辺には人の姿が見当たらなかった。
夏休みで利用者もそれなりに居るはずなのに、そこには二人しか居ないかのような錯覚に陥る。
「なんか、やっぱり懐かしい感じがする。まだ数ヶ月くらいしか経ってないのにな」
「ろくに顔も合わせてなかったから余計だろうな」
借りた本には手をつけないまま、御影も受け答える。
「……大学の方、どんな感じ?」
同じ質問を、一夜は以前にも一度だけメールで投げかけたことがあった。
その時は可も無く不可もない、というような答えを貰った。
「楽しいか、と言われたら、つまらないと答えるな」
「そうなのか……」
返答は悪化している。
「飽きるんだよ、いつも通りな」
「でも、まだ半年過ぎたくらいだろ?2年目とかなら解る気もするけど」
「今日、久しぶりに篠崎に会って改めて実感したよ」
「……何を」
御影の唐突な切り出しに訝しげな表情を浮かべつつ、一夜は言葉を促す。
「篠崎はやっぱり特別だ。やっとまともな場所に戻ってこられた気がする」
「なんだそれ」
御影の言葉に、一夜はただただ不可解な表情をする。
「例えば、だ」
言うと、御影は先程借りた一冊の本を手にする。
「この本が篠崎だとする」
「……ああ?」
「他の本は全て白紙の、中身のない本だ。……こう言えば少しは解るか?」
「……」
その言葉に、一夜はどう答えたものかを迷う。御影にこの手の話をされると、一夜はいつも返答に困った。
言っている意味は十分理解できる。だからこそ、その扱いにどう答えていいのか解らなくなるのだ。
「……いつも思うんだけどさ、それって、俺、喜んでいいんだよな?」
「自分では悪いことは言っていないと思ってるよ」
「うん、まあ、嬉しく思っておくけど」
「……何かいいたそうだな?」
「いや……」
一夜が本を見つめて言い淀む。御影は一夜のそんな様子をただ黙って見ていた。
やがて、一夜が再び口を開く。
「……その本に飽きたらどうするんだ?」
「その質問は少し予想外だったな」
その言葉を疑いたくなるような表情で御影が言う。
「死ぬよ、生きてる理由もないからな」
「また、きっぱりと言い切るな……」
「言い換えれば俺の命はこの本が握ってる事にもなるな」
「……」
「俺が飽きるのが先か、本が刃物になるのが先か、だが」
その視線はどこか冷めていて、同時に愉快気でもあった。
「余程意図しないとこの本じゃ指を切るのが精一杯だな。それに生憎とこの本のシナリオは大団円だ」
「……って御影その本読むの初めてじゃないのか」
「何度か読んでるよ。たまに読みたくなるんだ」
「そうなのか……」
「篠崎の前でも何度か読んだことがあったはずなんだけどな」
「え、マジか」
「……篠崎らしいな。会わない間に変わっていないようで安心したよ」
言いながら御影は苦笑いを見せる。一夜はどことなくからかわれているようなその調子に不満を覚えつつ、その本のタイトルに目をやった。
次に読んでいる事があった時は気が付けるよう、そのタイトルを記憶に叩き込む。
少しだけ、また御影がこの本を借りることがあるよう、願いもした。
いまだに、どこまで気を許していいのか図りそこねている相手。
屋上で首を絞められた日の光景が脳裏を過ぎる。
あと一歩を踏み出そうとすると、もう一人の自分が肩を掴んで止めた。
この人は駄目だと。けれど同時に、御影が離れていくことへの恐怖も感じる。
暗黙の了解が、いつか音信不通に姿を変えるような気がしてしまう。
多分自分は、相手の気まぐれに振り回されているだけなのだと、一夜は心の片隅で感じていた。
そしてそれに抗えない自分に、どうしようもない憤りを感じる。
きっと、ただ一言で全てが終わる感情だった。
その口から肯定の一言を聞いてしまえば、どんな形であれ終りを迎えるだろうと思った。
けれど、今の一夜にそれを聞く勇気は、ありはしなかった。
悔しいほどに、一夜がすがれるのは目の前の青年だけだ。
「……あのさ、御影」
「なんだ?」
「向こうの、夢でさ、御影が俺に一緒に残らないかって言ったの覚えてる?」
「……ああ、言ったな?」
「俺、多分、」
一夜は言いかけて、はたして言ってしまってもいいものかと言葉を止める。
御影はただ一夜の言葉を待つ。伺うような表情をしていた。
「……いや、なんでもない。覚えてるならいい」
「そうか?」
「ああ、今なら言われた理由が解ると思ってさ」
「そうだな、でも結局、結果的には同じようなものだったな」
「……まあな」
"多分、今ならその要望に答えたと思う"という言葉を飲み込んで、一夜は作り笑いを浮かべた。
景色が茜色に染まり始めた頃、二人は図書館を後にした。
待ち合わせをした場所まで歩いて戻る。
「なんか、結局今までみたいに過ごしてるだけだったな」
分かれる場所を視野に入れながら、一夜が切り出した。
「物足りないか?」
「いや、会えただけでも十分だったし」
そうして分かれ道に差し掛かった所で、どちらともなく足を止める。
「ええと、じゃあまた、気が向いた時にでも」
一夜が切り出す。
「ああ。……あまり気は使わなくていいからな?」
「……ん?」
「メールの類はあまり好きじゃないんだ。何かあれば構わず連絡してくれていい」
「そういうことか。なんか、御影にそういう気遣いされると変な感じする」
「心外だな、篠崎が思っているよりはちゃんと考えてるよ」
「……じゃあさ」
一夜がぎこちなく視線を逸らす。
「一応、あんまりそれっぽい感じしないけど、俺達恋人な訳だし」
「……何だ?」
「俺、御影とまともにキスした記憶ってないんだけど」
一夜の記憶上では、初めて不意打ちでされた時と、屋上で首を絞められた時の物しか無い。
あれから長い時間を二人で過ごしていたにも拘らず、そういった行為をまともにすることもなかった。
心中未遂な所まで押してきた割に、御影は一夜にそういった物を殆ど求めない。
その意図は解らないが、少なからず、一夜にとって時折気にかかることのひとつではあった。
「……そういえばそうだな」
「実は少しだけ拍子抜けしてる」
「その気がなかったわけじゃないんだけどな。タイミングを逃してたんだ」
「……あっただろ、図書室、人いない時の方が多かったし」
「そうじゃない」
「じゃあ、なんだよ」
「篠崎がいい反応をしそうなタイミングだ」
「……なんだそれ」
一夜の返事の後、御影は促すように一夜をフェンスへと追い詰める。一夜も受け入れるようにそれに従った。
相変わらず響き渡る蝉の声に、カシャンという小さな音が静かに紛れ込む。
「正直なところ、要求されるとも思ってなかったけどな」
薄い笑みを浮かべて言いながら、御影はフェンスへ指をかけた。
「なんか、言っちゃいけない気がしてたんだよ」
一夜が御影の背へと腕を回した。
空いていた御影の左指が一夜の顎へかかり、添えられた親指が軽く一度一夜の下唇をなぞる。
そうして、そっと唇が落とされた。
暫く互いの唇を重ね合うと、御影は自らのそれをゆっくりと離した。
そのまま感情の見えない視線を一夜へ向ける。
「……もし、今俺がナイフ持ってたら、御影、油断してた?」
視線を受けると背後に腕を回したまま、一夜が苦笑いで言った。
「篠崎らしくない冗談だな」
対照的に余裕な様子で御影が答える。
「ずっと御影といたから感化されたんだ」
「なら、今後の付き合い方を考えないといけないな」
冗談気に言って今度は体ごと離れる。
「……それで、どうだったんだよ」
「篠崎に会えて良かったよ、良い一日になった」
御影は相変わらずの笑みで回答とは思えない言葉を返す。
様子から察するに、一夜の思惑は敗れたようだった。
「篠崎にしては唐突な申し出だと思ったんだ」
「……いや、まあ……」
キスをしたかったのは割と本気だったというのを、一夜は再び飲み込む。
「……篠崎の手は煩わせないさ。じゃあまた」
「……え、あ」
一夜の言葉を待たずに御影が踵を返して帰っていく。
最後の最後にまた一つ、御影は一夜へ痼を残していった。
もう、一夜は何度実感したか解らない。
この人には、敵わない。
「……」
もやもやとした蟠りを抱えたまま、一夜はその背を黙って見送る。
いつか来るかもしれないその日。
本当に、ナイフを手にしているかもしれない、その日。
(……気を使ってるわけなんかじゃない。送らないんじゃなくて、送れないんだ)
求めようとすると、つきまとう恐怖。
その背が見えなくなるまで、一夜はただひたすらずっと、遠い姿を見送っていた。
次にどんな顔をして会えばいいのかも解らないまま、見送っていた。
2012.0812
" Birthday1018 "
「そういえば御影、今日誕生日じゃなかったっけ」
時刻は17時を過ぎた頃の喫茶店で、一夜が思い出した様に言った。
店内には静かなスムース系の音楽に、ほんの少しの喧騒が入り混じっている。
呼び出したのは一夜だった。勉強で教えて欲しいことがあると約束を取り付け、今に至る。
店は特に空いている、という訳ではないのに、偶然なのか、意図的なのか、御影との相席はいつも周りに人気が少なかった。
御影は一夜の言葉に一瞬だけ意表を突かれたような表情を見せると、ああ、そういえばそうだった、と他人事のような返事をした。
「忘れてたのか?」
「忘れてたよ、特に気にすることでもなかったからな」
言いながら、御影は微笑を浮かべる。
「そうか……。なんにしてもおめでとう。御影は本当にこういうの興味なさそうだけど」
「確かに興味はないな。でもまあ、折角の篠崎の言葉は有難く受け取っておくよ」
「ああ……」
相槌を打ちながら、一夜は先程一瞬だけ見せた御影の表情が気になっていた。
いままでこうして会話を重ねる中で、御影がみせたそれはとても希少な反応だったからだ。
「なんだ?」
伺うような一夜の視線で、御影が何故か愉快げに問いかける。
「いや……、さっき、少しだけ意外そうな顔したからさ。珍しいなって」
「ああ、篠崎が誕生日の事を切り出すとは思わなかったんだ」
「それは、俺もなんとなく思い出しただけなんだけど」
「更に言えば、言った覚えが無かったな」
「あー、それは……」
一夜は少しだけ決まりの悪そうな表情で、記憶を探る仕草を見せた。
以前、一夜は御影へ免許は取らないのか、という質問を投げかけたことがあった。
そして、その時返ってきた言葉は「持っている」というものだった。
いつの間に取ったんだ、という会話の中で、御影は証拠に、と一夜へ免許証を差し出した。
その時たまたま見た誕生日を、今日、一夜はたまたま思い出した。
一夜はその旨を、目の前で相変わらずの表情を浮かべている御影へ告げる。
「そうか。まあ、大方そのあたりだろうとは思ったけどな」
「……俺が退院して、御影と会ったのってたしかその辺の時期だったなって、印象に残ってたから」
「そうだな。とはいえ、あの時は誕生日なんて過ぎたことも気づかなかった」
「気づかなかった、って……」
御影の言葉に、一夜は呆れとも情けとも言えない視線を御影に送る。
そうして何か言いたそうにするも、その口から言葉は一向に出てこなかった。
気がつかなかった、ということは、それに触れる人間が本人を含めて誰もいなかった、ということだ。
一夜には、それが少し気にかかった。
「篠崎は優しいな、俺自身が興味のないことを篠崎がどうこう考えなくていいんだ」
「ああ、いや……」
一夜の言わんとする視線の意味を的確に読み取った御影が、苦笑いでそう言った。
……多分御影のことだから、必要性を感じなくてそもそも人に知らせることも無いのだろう、と一夜は思う。
だが、自分さえ気がつかずその日が過ぎていくのは、やはり淋しいのではないか。
断っても向こうから祝うことを続けられていた自分の家庭環境があったからこそ、一夜には余計そう思えた。
「それにしても、人から誕生日に祝いの言葉をもらうのは数年ぶりだ」
黙り込んでしまった一夜を見兼ねてか、御影が普段の調子で切り出した。
「……数年って、どの位?」
「10数年ぶりだな」
「……それってさ……」
「両親は昔から多忙だったからな。小さい頃は伯父に預けられたという話はしたな?」
「ああ……うん」
「最後が伯父の言葉だよ。その前は、いつも食事にケーキが置かれていただけだ。それも、あまり子供向けとは言えないような」
「……もしかして、その食事も基本一人だった、とか」
「そうだな、希に母親がいたけどあまり会話をした記憶はないよ。父親も同じく」
広いリビングの真ん中に置かれた、4人用のテーブル。本来なら、そこに揃う数は3名だ。だが、いつだって必ず誰かが欠けていた。
大きなテレビは決まりで食事中に点くことはなく、「それが当然なんだ」と幼くして妙に物分りの良かった御影は、一人広いだけの部屋で静かな食事を取り、後片付けまでをこなした。
「当たり前」は必ずしも一定ではない。御影は「己の当たり前」だけを受け入れ、まだ甘える事を捨てられない筈の年齢でも、他の家庭がどんなものか知ろうとも、両親に何かを求めるようなことはしなかった。
『家にいるときは部屋で大人しく本を読んでいなさい、飽きたらお勉強か、引き出しにあるパズルを』
『お友達と遊んでも、5時には必ず帰りなさい。いたずらなんて下らないことには、絶対に付き合っては駄目だからね』
主に母親から言いつけられた様々な決まりも、律儀に守った。そもそも、それを破るような好奇心も、幼少にして既に御影は持ち合わせていなかった。
振り返ればつまらない子供だったと、御影自身も自負している。
「……」
御影の話を聞きながら、そういえば御影が自分の身の上話をするのも珍しいな、と一夜は感じていた。
同時に、脳裏に静かな部屋でたった一人、ただ義務のように置かれたケーキと、一人分の食事を黙々と食していたであろう姿が想像出来て、言葉に詰まった。
自分の記憶と比べると、その光景は酷く対照的だ。もう見られなくなってしまった光景ではあるが、一夜の誕生日では、いつも笑顔があり、明るい光が見えていた。
そんな一夜の思いを他所に、語り手の御影は、誰かの物語でも話すかのような様子で話を紡いでいる。
「……その、伯父さんは祝ってくれたのか?」
「一度だけな。……多分気まぐれだったんだ。”気に食わない物が出来上がったから誕生日のお前に献上しよう”って、ふざけた調子だった」
十数年前の今日、御影の伯父は飄々とした調子で、本来ならその年頃の少年にプレゼントするようなものでは決してないものを、御影へ差し出した。そしてそれは後にも先にも一度だけだ。 本当に気に食わなかったのか、伯父の冗談だったのかは、御影にも解らない。
一夜はただただ返す言葉に迷っていた。笑えばいいのか、同調すればいいのか解らず、御影に視線を送ることしかできない。
「それでも、伯父のそういうふざけた調子は好きだったからな、多少は嬉しかった記憶があるよ」
「……そうか」
結局、一夜の口からはそんな言葉しか出てこなかった。
「今思えば、あの時貰った人形はどことなく篠崎に似ていた気がするな」
「そうなのか……?」
「生憎、既に手元にはないから確認のしようは無いが」
「失くしたのか?」
「戻る時に、両親に置いていけと言われたんだ。特に父親が伯父を毛嫌いしてる」
「……なんかさ、」
「自分と比べるな篠崎。俺にとってはそれが普通なんだ」
「……」
一つ一つを的確に返されてしまい、一夜は度々言葉に詰まってしまう。
一夜からすればそれはやはり何か違う気がするが、御影は自分を「幸運者」と言う程だ。
自分には計り知れない思考回路になっているのだろうと、なんとか己を納得させる。
「だから身の上話は好きじゃないんだ」
苦笑気味にそう言って、御影は窓の外へ視線を向けた。辿るように一夜も外へ視線を向ける。
年代も性別も様々な人々の姿が行き交う街頭。御影にとって、この人々はどう映っているのだろうかと、一夜は眺めながら思う。 そして、恐らく自分は御影にとってこの人達と違うものに分類されているのだろうと思えば、とたんに、言い知れぬ感情に襲われた。
そうでなければ、きっと今こうしてはいない筈だと、一夜は横目で御影を盗み見る。
「篠崎は今日たまたま思い出したんだろう?」
そんなタイミングで話しかけられて軽く肩を跳ねさせつつ、一夜は向き直ると肯定の返事をした。
「そうか」
「……なんでだ?」
「いや、運が良かったと思っただけだ。たまたまでも光栄だ」
「俺も、今日にして良かったかもしれない」
「同情でも覚えたか?」
「そういう訳じゃないけどさ。……でもやっぱり、淋しい感じがする、御影の話」
「なら、篠崎が補ってくれればいい」
「え」
意外な切り返しに、一夜は思わず間の抜けた声を上げる。
「多くは望まないさ。幸いにも今はこうして篠崎がいる、それだけで十分だ」
「……」
平然とそんな言葉をつらつら吐き出す御影に、一夜は先ほどとは違う理由で言葉に詰まった。
「……御影ってさ、ナチュラルに気障な所あるよな」
照れくささを隠すようにそう言葉を捻りだした。
「正直者なんだよ、篠崎には負けるけどな」
そんな一夜をからかうように更に言う。
一夜は何か言いたそうにするも、言葉遊びで敵う相手ではないと思い直し結局口を噤んだ。
「……篠崎は」
「うん?」
「俺がここに存在していて良かったと思うか?」
「……」
らしくない質問だと、一夜は思った。御影にしては率直で、酷く、幼稚な質問に感じられる。
だが、その簡単な質問への答えが、一夜はすぐに出ては来なかった。
それは、二人にとっては決してただ確かめるような、軽い質問ではなかったからだ。
一夜はそれを何故今訊くのかと、御影への反論を覚える。
「……なんて答えたら御影は満足なんだよ」
迷った末に、一夜は非難混じりの調子で問い返した。
「篠崎の本心が聞きたいんだ」
淡々とした様子で一夜の言葉を促す。
前触れもない、唐突な駆け引きだった。
「俺が生まれて初めて誕生日に要求するプレゼントだ」
「プレゼントって」
「篠崎の本音の回答が欲しい。安上がりだろう?」
冗談気に言ってみせる。
一夜の脳裏には、タダより高いものはない、という言葉が浮かんでいた。
「用意するのは難しそうか?」
一夜の様子を見て更に御影が問いかける。
一夜はその問には答えず、その前の質問への回答を探した。
ここに存在していて良かったか。
回答は、重り一つでバランスが変わる天秤のように、危うい物だった。
「……いなければ良かった」
静かに一夜が言う。視線は、御影を捉えてはいなかった。
「そうか」
ショックを受ける様子もなく、淡々と御影が答える。
「でも、いてくれなきゃ困る」
だが、一夜は言葉を続けた。外れていた視線が、責めるように御影へ向けられる。
「……ずるいよ、御影。さっきの話から、全部予定調和なんだろ」
「心外だな、そんなに計算高い人間に見えるか?」
「見える」
「買い被りだ。そこまで器用じゃないよ、俺は」
「……」
「まあ、計算だと思えるなら思ってくれればいい。その分篠崎をからかいやすくなるからな」
一夜の言葉を気にする様子もなく、御影は楽しげに言葉を並べた。
そんな御影の言葉が、一夜は悔しくて仕方がなかった。
いなければよかった。間違いなく本心の言葉だった。
だが、その言葉を思う程強く実感する相反する感情に、一夜はどうしようもない悔しさを感じた。
居てくれなければ困るほど、強く惹かれている。好きだと思ってしまう。
だが、信用なんてしてはいけない。溺れてはいけない。一線を超えてはいけない。
存在しなければ、その全てに苦悩することなんて無かった。何も拗れる事はなかった。
目の前の人物に翻弄されると同時に救われる矛盾。
否定しきれない自分が、一夜はもどかしくて仕方がない。
「……出ようか」
殆ど手をつけられていないエスプレッソをそのままに、御影が立ち上がる。
一夜は一瞬従うか迷うも、結局、御影に続いて席を立ち上がった。
すっかり暗くなった別れ道までの道のりを、二人は無言のまま歩いていた。
だがその様子は対象的で、一夜は考え込むように下方ばかりを見て歩き、御影は平然とした態度で辺りの景色に視線を送っていた。 それでもきちんと互いを意識して歩いているのが傍目でも解り、奇妙な印象を醸し出している。
とはいえ、そんな印象を与える相手は、この時間この道には殆どいない。
結局終始無言のまま、二人は目的地まで辿り着き足を止めた。
「……篠崎は、作り物のように綺麗な人の死体を見たことがあるか?」
唐突に御影が切り出した。言って、すぐ側の電信柱へ寄りかかる。
「……死体、って……死体?」
ずっと浮かない表情をしていた一夜が、頭を整理する余裕も無く訝しげに問い返す。
「ああ、亡骸とも言うな」
「……無い、と思うけど」
答えて、一瞬だけ果たして本当に無かったか、と気になるも、一夜はやはり無かったはずだと考え直す。
「そうか、まあ、それが当然だな」
「なんだよ、いきなり」
「それは人形に分類されると思うか?」
薄笑いのまま、御影は更に質問を投げかける。
一夜は疑問ばかりが増えていく中、質問への答えを探した。
「……解らないけど、違う気がする」
「そうか」
返答に納得したのかもよく解らない様子でただ短く言うと、御影はそっと一夜へ腕を伸ばした。
その指が一夜の頬へ触れる。無機質にも感じられる視線が、一夜を捉えていた。
とたんに、一夜は身動きが取れなくなる。
恐怖ではない。次々に溢れ出る疑問の数々が、一夜の思考を束縛していく。
どうしていいのか解らないまま御影の視線に答えていると、ふ、と、突然御影が笑みを浮かべた。
「……なんなんだよ、さっきから」
耐え兼ねて、ついに一夜は非難の言葉を投げかけた。
「面白い奴だな、篠崎は」
「……」
それはもう何度も言われてきた言葉だ。だが、今までのどの言葉より実感が篭っている気がして、 一夜は御影に向けていた不満を打ち消されてしまう。
「篠崎に会うまでは、自分の人生に見切りをつけていたんだ」
「……見切り?」
「何もなかった。言葉通りの意味で」
触れたままの指が一夜の髪をそっと梳く。感触を確かめるようなその仕草に、一夜は少しだけくすぐったさを感じた。
御影の視線はいつも冷めたようなのに、自分に触れる手つきは必ず貴重な骨董品でも扱うかのように丁寧で優しい。一夜は、その不思議なギャップに奇妙な感覚を覚えつつも、同時に悦びも覚えていた。
「何で、俺なんだ?夢に出ただけなんだろ?」
「それは俺にも解らないさ。……でも、篠崎だった」
不意に御影が一夜へ唇を重ねる。一夜は突然の事に少しだけ驚くも、それを拒否することはしなかった。
こうしてキスを要求される事へも、一夜は満たされる物を感じてしまう。だが、そうした自分の感情への反発も感じた。
離れる時に感じる名残惜しささえも、少しすれば戸惑いに変わる。
……その存在を知らずにいれば、その全てはなにもおかしくならなかった。
突如こみ上げてきた感情に、一夜は思わず御影から一歩身を引いた。
御影は一夜の動向を平然と見守っている。
「なんで言えないんだろうな、俺」
自嘲のような笑みが、その表情に浮かぶ。
「何を?」
「お前なんて生まれてこなければ良かったのにって、御影に言う権利が、俺にはあるんだろ?」
「そうだな」
「……平然とそうだな、なんて言うなよ」
重い、大きな岩を投げつけるような言葉の筈だった。なのに、御影はそれをハリボテだといわんばかりに安安と受け止める。
そういう御影の反応を見るたびに、一夜を寂しさとも悲しさとも似つかない感情が襲う。己の中の感情を掻き回される。
「辛ければやめればいいんだ。誰も篠崎に強要はしていない」
「だから……」
何故、そうやって簡単にやめればいいなんて言うのか。
一夜の中の平常心が、だんだんと失われていく。
「篠崎にはそのどちらも出来ないだろうな。……優しすぎるんだよ、篠崎は」
「だから……!」
思わず張り上げた声で一夜ははっと我に返り、落ち着けるように一度深呼吸をした。
改めて御影を見ると、相変わらず冷静な様子で一夜を見守る御影と目が合う。
目線の先の人物が何を思っているのか、一夜には全く把握できなかった。
「……もう一度聞こうか、篠崎」
そして、苦笑い気味の表情で御影が静かに切り出した。
「俺がここに存在していて良かったと思うか?」
同じ質問を、同じニュアンスで、再度一夜へ問かける。
「……いなければよかった。そうすればこんな問答も思いもしなくて済んだんだ。……全部、御影のせいだ」
壊れた思考回路で答える。ただ、感情のまま吐きだした返答だった。
「そうだな、反論の余地もない」
「……」
「それ以上は考えるな。……篠崎はそれでいいんだ」
御影の言葉に、一夜は酷く悲しくなるのを感じた。
なんなのだろうこれはと、誰も答えられないであろう質問を、誰でもいいから問い詰めたくなる。
「誕生日に本当に欲しいものをくれたのは篠崎が初めてだ」
俯く一夜に近づくと、御影は再び一夜の髪へその指を滑り込ませた。一夜は俯いたままその手に自分の手を重ねる。
「……嬉しかったんだろ、人形」
掠れ気味の声で御影へ言う。
「そうだな、そう思ったはずだ」
「だったら、俺もそれでいいよ。……御影といると、色々考えるのに疲れる」
訴えるような一夜の言葉に、御影は苦笑いを浮かべた。
「それは俺が困る。ようやく篠崎を見つけたんだ」
「なら、」
一夜が言葉を発するより先に、御影の腕が動いた。
重ねられた一夜の手をすり抜けた御影のそれは、流れる動きで一夜の首元をなぞり、止まる。
その刹那、一夜の脳裏に屋上での記憶が浮かび上がった。
今のような薄暗い空間の中、肌寒い風に吹かれて、作り物のような瞳が自分を捉えていた。
そうして一夜は、衝動的に飛び出そうだった「もうめちゃくちゃにしてくれて構わない」、という言葉を、既で飲み込んだ。
「……それでいい」
まるで一夜が何を言おうとしていたのか解っていたかのように静かに言うと、御影は触れていた指を下ろした。
それだけは言ってはいけない。それはきっと終わりの言葉だ。
取り戻した思考能力で、一夜は自分に言い聞かせる。目の前の人物は、決して気を許していいような相手ではない。
……それなのに。
こんな思いをしたって、また会いたいと思ってしまう。
こうやって葛藤しているうちは、きっと御影は自分から離れることもしない。
いなければよかったなんて、もはや、肯定を立てるための言葉でしかなかった。
悔しさはやがて滑稽さになり、思わず口の端が緩む。
「今日は勉強、教えてくれて助かった」
一転して笑みを浮かべた一夜の言葉に、御影は今日二度目の意外そうな表情を見せた。だが、すぐに表情を普段のものへ変える。
「いつでも呼び出してくれて構わない」
「……サンキュ」
一夜はどこか諦めたようにも見える微笑を浮かべて言う。早くも冬の到来を思わせる夜風が、冷たく二人の間をすり抜けていった。
じゃあ、と、お互い自分の岐路を歩き出す。
離れていく距離。そのまま、近づくことはない距離。
やがて、振り切るように一夜の足が地を蹴る。
背を向けて進む二人を、ナイフのような10月の月が見下ろしていた。
2012.1018
待ちぼうけ
約束の時間から、30分が過ぎていた。
待ち合わせの人々が目立つ人混みの中、おかしいな、と一夜は辺りを見回し、再び腕の小さなアナログ時計に目をやった。
時間は間違っていない。なら記憶違いをしているのだろうか?
そう思い約束を取り付けたメールを見直すも、内容も覚えていた通りだった。
しかし何度周辺を見回そうとも目的の人物の姿はなく、時間はただ、一刻一刻過ぎている。
目印にしていた大きなクリスマスツリーの前で、一夜は一人、困惑するしかなかった。
25日、クリスマス。
約束を切り出したのは、御影だった。
方や元はストーカー、知り合ったきっかけは一つの事件。そしてキスを交わすような関係に成り上がるという、奇妙な関係が始まってから、約一年。
御影はとうに高校を卒業し、一夜も受験に備えてそれなりに忙しい日々を送っていた。
普段、お互い滅多なことでは連絡も取らず、こういった特別な日だからといって必ずしも共に過ごす、ということもなかった。
それが何故か珍しくも、クリスマスなどという、それこそ世間的に当たり前と言える枠に、当たり前を嫌う御影は約束を取り付けてきた。
メールを受け取ったときは一体何が起こったのかと、一夜も酷く驚いたものだった。
そして当日。
一夜は待ちぼうけを食らった。
「……」
先程、メールと電話は入れてみている。けれども電話は呼び出し音すら繋がらず、メールの返信も一向にない。
御影は約束の日、いつも必ず時間通りに来る。それこそ、正確すぎるくらいにだ。今のところ、例外は一度もない。
だからこそ、尚の事一夜は今自分が置かれている状況が解せなかった。
(もしかして、何かあった……?)
こんな、多くの人々が浮かれて動く日だ。事故か何かに巻き込まれる可能性は、いくら御影とは言え、十分あり得る。
それに、もしそうだとすれば先程から一向に連絡が付かないことにも、納得する理由ができてしまう。なにもおかしい話じゃない。
湧き出した可能性に焦りを覚えるも、今の一夜には、確認する術がなかった。
携帯は繋がらない。ならば直接家に行ってしまう方法もあるが、一夜はいまだ、御影の家を知らない。 恋人、と明確に言えるのかは危ういが、それなりのことを交わす関係になって暫く経つ今でも、 会うのは必ず外だった。
一夜が部屋に行きたいと申し出たことはある。だが御影が、自身のプライベートに近づけば近づくこと程、なかなか触れさせようとしないのだ。
一夜としては、そういうのもそろそろ砕けてきて良いんじゃないのか、と思っている。そしてその考えを押して来なかったことを、今更後悔した。
「……は……」
どうしたものかな、と困った様に息を吐き出せば、空気中に白く溶ける。
イルミネーションに彩られた景色には、恋人同士やクリスマスとは無関係そうに忙しなく移動する人間が溢れかえるだけで、何度目を凝らしても、目的の人物の姿は見当たらなかった。
事故、ど忘れ、ドタキャン。
色々な可能性が一夜の脳裏をよぎる。何れにしろ、今の一夜には待つ以外の術がない。
(……一時間。約束から一時間たったら帰ろう)
一人決意し、残りの時間を確認する。
待ち始めてから一時間が経つまで、後、20分足らず、という所だった。
***
人々の喧騒を聞きながら立ち尽くして、残り時間も後10分程となった。
少し前から、辺りにははらはらと雪が降り始めている。コートのポケットに隠れた両の手も、あまり暖かいとは言えなかった。
流石にずっと黙って立ち放けていれば肌寒さを覚え、一夜はマフラーへ顔を埋めるように身を縮こませた。
……なんで来ないんだ?
繰り返し浮かぶ疑問を、再度待ち人へ問いかける。
取り付けたのは向こう。時間も日時も間違ってない。連絡に反応はない。
事故の可能性はまだ捨てきれないが、道行く人々の平和な様子を見ていると、その可能性は薄れていくように感じた。
もしかして、この期に及んでなにか試されてる……?
それともまさか、持ち上げておいてどん底へ落とすような何かを企んで、
「……?」
待ち続ける疲れと寒さで思考が歪んで来た頃、一夜のポケットで携帯が震えた。
「……!」
相手を確認すれば、そこにはずっと待っていた御影亨の名が表示されていた。
急いで内容を確認する。
『悪い、諸事情で連絡できなかった。近くのビルの二階にあるカフェで待っててくれ』
「……、」
読み終えて、一夜は気の抜けたように小さく息を吐いた。
どうやら、心配していたことは無かったらしい。諸事情とはなんだろう、と気になるも、合流したら問い詰めてやればいいと切り替えて指定された店を探す。
この周辺に立ち並ぶビルで、二階にカフェがある建物は一箇所しか見当たらなかった。外からでも解るその店は、確か前に二人で行ったこともあるし、そこで間違いなさそうだ。
(それにしても……なんだかな)
なんとなく腑に落ちないものを感じたまま、一夜は店へと移動する為歩き出した。
***
「……あれ」
指示された店の入口に立った時、一夜は思わずそう声を漏らした。
広い入口は、外側に広がる店の奥までよく見える。そんな中、大きな窓でディスプレイされた窓際の席の、その一角にすぐさま視線を奪われた。
「おひとり様ですか?」
一夜が一人困惑していると、若い女性の店員が、笑顔で声をかける。
「あ……いや、知り合いが」
一夜が戸惑った様子で答えれば、察した店員は「かしこまりました」と一礼して、一夜を奥へ促した。
一夜も軽く会釈をすると、迷わず、目的の席へ向かった。
そこには確かに、見覚えのある姿が畳まれた黒いコートを傍らに置いて、窓の外を見ながら一人で座っていた。
そんな彼の周りは、こんな日の、それなりに良い時間だというのに、人々はもっと"らしい"店へ行っているのか、空席が目立った。
なんとなく、いつかの本に囲まれた放課後の記憶が頭をよぎる。あの時も、不思議なほど彼の周りには人がいなかった。
「なんで俺より先にいるんだよ」
一夜は開口一番訝しげに言いながら、向かいの席へ腰を下ろす。
「なんでだと思う?」
突然の一夜の言葉に驚くこともなく、早々に微笑すら浮かべた御影がどこか愉快そうな様子で答えた。
御影の問い返しに、一夜は不満げな瞳を窓の外に向けながら答えを模索する。
この席の位置からは、待ち合わせの目印にしていた大きなツリーのイルミネーションがよく見えた。
……そう、恐らく、自分が立っていた位置も。
「まさかとは思うけど……」
言いながら、一夜は疑惑の視線と共に御影へ顔を戻す。
「ずっとここで俺を見てたわけじゃないよな」
「いつ帰ることを決めるかと思ってたよ」
「おい……!」
荒げこそしなかったものの、一夜は思わず批難気な声を上げる。
一夜のその反応に、御影は悪かった、と笑い混じりの言葉を返した。その顔には、傍目にも明白な笑顔が浮かんでいる。
「……」
そんな御影の表情に、一夜は直前の不満も忘れて戸惑う。
別に、御影が笑う所を見るのは初めてではないし、自身の前ではいつも楽しげだ。
ただ、その表情の部類が、普段見る物とはまた少し違うように感じた。浮ついた、という感想を、一夜は御影に対して滅多に抱かない。
結局、文句を言う気も逸れて、一夜は諦めたように小さく息を吐いた。
「……で、こんなことを思いついた理由はなんだよ。好奇心?」
「付け足すなら、少しだけ過去を懐かしんでみたからだな」
「そこに、俺が心配する可能性は含まれてたのか」
「悪かった、それなりの詫びは考えてる」
「……」
繰り返される苦笑いの言葉に、そういう問題でもないんだけど、という言葉を一夜は飲み込む。代わりに、詫びとは何かを問いかけた。
「その前に一旦場所を変えようか。店をとってある」
言うと、御影は一夜の返答も待たずにコートへ袖を通して立ち上がる。相変わらず意のまま振り回される感覚を覚えながら、一夜もそれに続いた。
「……店って?」
再び雪の舞う街路に出て、行き先も告げない御影に一夜が問う。
「定番通り食事でもどうかと思っただけだ。金銭の心配はしなくていい」
「ああ、悪い……、詫びってそれ?」
「一環だな」
一夜の疑問に、御影は何か面白いものを聞いたような調子でそう返す。
一夜は相手のそんな様子には気が付くこともなく、元々予約していて一環ということは全部計画か、と、一人納得していた。
「テーブルマナーを要求する店じゃないから安心しろ」
更にからかうように言う。
「……助かります」
一夜はそれに対してノリに合わせるような返答をしながら、やはり感じていた。
どこか浮ついている、と。
***
「ご馳走様、美味かった」
普段なら立ち寄ることのないであろう値段のメニューが並ぶ店での食事を終え、改めるように一夜が切り出す。
確かに言われたとおりテーブルマナーは無かったが、それなりに入る人間を選ぶ店であったことに代わりは無く、一夜は終始目の前の人物の底知れなさを再確認していた。
「それなら何よりだ」
満足げに答えると、御影はまたどこかへ向かって歩き出す。今度も行き先を告げる気はないようだった。
どこへ行くのか気になりつつ、一夜も続いて歩き出す。降り出していた雪は、食事の最中に止んだらしかった。
「……一環、ってことは、この後も何かあるんだろ?」
「ああ、メインはこっちだ」
「そうなのか。行き先は聞かない方がいい?」
「そうだな、悪い場所には連れて行かないよ」
「そうか……」
多少の不安と好奇心を抱きつつ、一夜は御影に従って着いて行くことにした。あんなことをされた後だが、悪い場所では無いという御影の言葉が嘘だとは思わなかった。
そしてこういう、変に信用がある所が厄介なのだと、一夜は何かある度に実感を覚えた。
進路方向から言えば、このまま行けば様々な店が立ち並ぶ駅付近からは離れることになる。一夜が殆ど来たことのない方向だ。そのせいもあり、到着地の検討は皆目つかなかった。
それにしても、と、互いに無言のまま歩きながら一夜は思う。
(予想外に真っ当なクリスマスを過ごしてしまっている……)
待ち合わせこそ妙な思惑に振り回されたが、こうして過ごしている今の時間は紛れもなく恋人同士のそれだ。
とはいえ、本来なら自分が受けているのは"彼女"に施される対応なのだろうと、一夜は思う。けれど多分、御影はそんなこと気にしていないだろうとも思った。
御影にとって重要なのは、性別よりも、相手が誰なのか、ということなのだ。
「今朝付で、伯父から荷物が届いたんだ」
「ん……?」
一夜が一人そんなことを考え、辺りもすっかり街灯の明かりばかりが目立つ道へ差し掛かった頃、御影が切り出した。
伯父。
以前一夜は御影から、小さい頃は親戚の、人形師の伯父に預けられていた、という話を聞いたことがあった。恐らく、その話の人物だろう。
「何が届いたんだ?」
純粋に浮かんだ疑問を問いかける。
「それをこれから見せてやる」
「……?」
その言葉に、一夜は少しだけ混乱した。見せてやる、とは。
「何年も音沙汰がないかと思えば、思いついたようにこれだ。妙なやつだと思うよ」
「その言葉つっこんでいいか……」
自分も大差ない性格をしている癖に、と内心で思いながら一夜が呆れ気味に言った所で、御影が急に足を止めた。
突然のタイミングで意表をつかれつつ、同じ場所で一夜も足を止める。
御影が立ち止まったのは、住宅街に立ち並ぶ家屋の中の一つの前だった。
「どうぞ」
そうして御影は微笑を浮かべながら目の前の門を開き、その奥へと促すように手で示した。
「え……」
一夜はすぐに動けなかった。
示された先に広がるのは、広い敷地。そうでなくても、この辺り一帯の敷地はどこも広く、近代的な作りの家屋が目立つ。恐らく、"そういう部類"の家主が多い地域なのだろう。
そして、入るように促された門の傍らには、紛れもなく『御影』の苗字が掲示されている。
「どうした」
「いや……」
一夜の戸惑いを見透かした様に問う御影へ、一夜はただ冴えない声を返した。
家庭環境に関しては、ある程度予想が付いていたから特別に驚くことではない。とはいえ、流石に実際に目の当たりにすれば実感が伴い、動揺は覚えた。
でもそれ以上に、一夜は今まで頑なに、適当な理由ではぐらかされていた”その場所”に案内されたことが、驚きだった。
「一応聞くけど……自宅だよな?」
「他人の家に不法侵入させてどうする」
「そうだけど……、なんでいきなり」
「いい機会だと思っただけだ」
「そうか……?」
本当にそれだけなのだろうか、とは思いつつ、今度こそ足を踏み入れる。御影も後からそれに続いた。
行ってみたいと度々口にしていたのは自分のくせに、いざその時が来れば、一夜は妙な緊張を覚えていた。
玄関に近づくと、センサーで灯る明かりが辺りを照らす。家の窓は見た所どこも暗く、屋内に人の気配は無さそうだった。
「……家の人は?」
「夜中まで帰らないらしい」
言いながら御影が鍵を開ける。広い玄関から上がり込むと、そのまま真っ直ぐ2階の自室へと案内された。
「ソファにでもかけて少し待っててくれ」
コートをハンガーへ掛けながら言うと、御影は部屋を出ていった。
「……」
残された一夜は落ち着かないものを感じつつ、言われた通りマフラーとコートを脱いで鈍色のソファへ腰を下ろす。
そうして、なんとなしに部屋の中を見回した。
モダンな色合いで統一された広めの部屋は、無駄なものがない印象だった。当人の部屋だと言われてとてもしっくりくる。
何より象徴的なのは、大きめの本棚だろう。ハードカバーや文庫本、洋書、果ては学書の類らしきものまで、様々な本が入っているようだった。
図書室の本を無差別に読み漁るような人間が、自身の部屋の本棚へ本を置き貯めるというのは、一体どういった心境からなのだろう、と、並ぶ背表紙を見ながら一夜は思った。
単純に考えれば、その書籍が気に入ったからだが、御影は以前、読書は暇つぶしでしかない、とも言っていた。
もちろん、暇つぶしとはいえ気に入ったものが見つかることはあるだろう。なのにそんな当たり前の事が気になったのは、恐らく、御影という人間が何かを収集することなんてしそうに無かったからだった。
棚からそのまま視線を横に逸らせば、横長の黒いデスクが目に入った。
よく整理されたデスクの上には、空いたスペースに、さほど大きくないダンボールが置いてあった。伝票らしきものが見えることからも、あれが伯父から届いたという荷物だと思われた。
見せてやる、と言っていたのも恐らくあれだろう。一夜は中が気になるも今は待つしかなく、強張っていた体の力を抜くように柔らかなソファへ身を沈めた。
(本当に、なんでいきなり連れてきてくれたんだろうな)
一通り部屋の中を把握し、やっと緊張が落ち着いてきた所で、再び一夜の脳内にその疑問が浮かび上がる。
伯父から送られてきたあの何かを見せたかったというだけで、いままで頑なに拒否していたことを許したのが、一夜は腑に落ちなかった。
こんな日だからなのか、それとも本当にいい機会だと思ったのか。何より、やはり今日の御影はいつもより浮ついている感が拭えなかった。
逆に、今まではなぜ頑なに拒否していたのか。見られちゃまずいものがあったが、今はそれが無くなったのだろうか。
一夜の脳内が疑問で埋まり始めた頃、部屋のドアが徐に開いた。現れた御影の手には、カップが二つ乗るトレイが持たれていた。飲み物を淹れてきていたらしい。
「念願叶ったご感想は」
冗談気に言いながら、一夜の傍らのサイドテーブルへ湯気立つカップを一つ置く。同時に、珈琲の香りが一夜の鼻孔をくすぐった。カップの横には、少し多めの砂糖とミルクが添えられている。
「思ったより普通だった」
一夜は礼をしながら答える。
「もっとそれらしい部屋の方が良かったか?」
「それらしいって」
「壁一面写真だらけ、とかな」
口角を上げて言うと、自身のカップをデスクの上へ置いた。
「いや、それは流石に……」
「今まで立ち入らせなかったのは本当にただ呼ぶ気がなかっただけだ。深く気にするな」
「なら、なんで今日はいきなり」
「これが届いて気が変わっただけだ」
そう言うと、御影はダンボールの中から更に50センチほどの蓋のついた木箱を取り出して、一夜へ手渡した。
「……?」
一夜は手渡された、どこか高級感のあるその箱の蓋を開ける。
「これって……」
中から現れたのは、緩衝材のベッドに寝かされた、一体のヴィスクドールだった。少年を模したその作品は、憂いげだが綺麗な顔をしている。
そしてどこかアンティーク風の繊細な衣装に身を包んだそれは、一夜にも覚えのある作りをしていた。
幼い頃に見た、同じ作者の、別の作品。そして、今は亡き母親が好んでいた、人形の名前。それらが一夜の脳裏に浮かび上がっていく。
「伯父のもとにいる頃、誕生日に人形を貰った、と話したのは覚えているか?」
ふとすぐ近くで声が聞こえて、一夜は思わず小さく肩を跳ねさせた。
顔を上げて見れば、いつの間にか御影は片手をソファの肘掛へ置き、屈む姿勢でその人形へ視線を落としていた。距離は驚く程近い。
そうして、もう片手でそっと陶磁器製の肌を撫でる。御影の瞳は相変わらず箱の中の人形の様で、冷めた印象の表情からはその心理を上手く読み取れなかった。
一夜はそれらの状況に多少の動揺を抑えつつ、問われた話題の記憶を探る。
確かに、前にそんな話を聞いたことがあった。そしてその時貰った人形は、一夜に似ていた気がする、とも言っていた。
「……」
一夜は改めて人形に視線を落とす。
緑色の瞳をしたその人形は、髪の色くらいしか自分と似ているようには見えなかった。そもそもの造形が西洋風な為、完全に似るということ自体まずありえないのだが。
しかし、あまり人形には興味がない一夜の目から見ても、その作りは綺麗だと感じた。そして御影の言っていた、幼い頃誕生日に貰ったと言う人形がこれだったならば、きっと今日に至るまで手入れが施されていたんじゃないかと思えた。その位、目の前の人形の状態は整っていた。
「……俺に似てるかどうかはともかく、ほんと綺麗だよな、この人の人形」
そう言う一夜は、御影が自分にこれを見せようと思ったのは作品の優秀さを示すためではなく、以前の話を聞いた前提で、この人形を見た時の自分の反応を見るためだというのを解っていた。
だが、頑なに拒否していたことを許容する程度には大きな存在だったそれと、自身の存在が重ね合わせられていることに、どうしてもむず痒さのようなものが拭ず、そう述べるしかなかった。
そして同時に、もしも今母親と妹がいたならば、この人の作品が見られたことをさぞ喜んだことだろうに、と、思わずその光景を想像する。
途端に、一夜は複雑な感情に見舞われた。
そんな、想像の中で笑顔を浮かべる二人は、他者の手によって奪われたのだ。
そして、奪った筈の人間と、すぐ側にいるその人物と、たった一つの暗黙の了解だけで、今この瞬間、こうしている。
待ち合わせに遅れれば心配して、それらしい時間を過ごせば満更でもないものを感じて。本当なら今すぐにでも首を絞めてやればいいのに、未だに、それが出来ずにいる。
次第に、自分は家族を裏切っているんだろうかと、一夜の中に自責の念が浮かんだ。
「……っ?!」
と、そんな感情に見舞われるのも束の間、次の瞬間、一夜は首筋に落ちた唇の感触に、直前の思考を全て止められてしまった。
「ちょ……、」
戸惑う一夜の言葉など聞こえない様子で、更に二、三、軽いキスが落とされる。
「っ……!」
混乱して抗えないままの一夜を最後に襲ったのは、首元を強く吸われる感覚だった。
「……隙だらけだな」
ふ、と挑発するような微笑を浮かべながら、御影が顔を上げる。
「今、何した……?」
一夜が吸われたその場所に触れながら、唖然とした表情で問う。
予想こそつくも、生憎と鏡でも使わなければ確認できない位置だった。
「消し方は自分で調べろ」
「……!!」
予想を肯定する返事に言葉を失う。
御影は早々に木箱を閉じると、元の場所に戻す為デスクへと向かっていった。
「……、」
動揺と混乱で鼓動が早まるのを感じながら、一夜の脳内を意味が解らない、という思考が埋めていた。
そうされる直前まで、罪悪感に見舞われていた筈だった。それが、一瞬でかき乱されてしまった。
いつもそうだ。見計らったかのように、全て見通していたかのように、絶妙なタイミングで掻き乱される。
そしてそれが何より御影にとって楽しいことなのだというのも、一夜は解っていた。
解っているのに、いつだって容易く弄ばれて、終わってから気がついてしまう。
その度、一夜は自分の不甲斐なさに呆れ、そこに繋がりすら見出してしまう己の弱さに失望した。
「帰りはどうするんだ」
どこか満足したような様子で椅子に腰を下ろすと、御影は聞いた。
「……どうするって、普通に帰るけど」
もやもやしたものを感じながら、一夜は目を合わせず答える。
混乱が抜けきらないせいで、どうする、という質問の正確な意図までは掴めなかった。
「なんなら送っていくけど?」
その言葉で、一夜はようやく御影が車の免許を持っていたことを思い出す。
だが、その言葉に甘える気は、既に起きなかった。
「いい、自力で帰る」
「そうか、ならそろそろいい時間じゃないのか」
「ああ……」
一度時計で時刻を確認する。確かに帰るならいい時間だった。
一夜はすっかり気力を奪われた様子で立ち上がると、コートとマフラーを身に付けて帰り支度を始める。
同時に、冬場で良かった、と妙な安心を覚えた。
「帰り道は覚えてるか?」
「覚えてる」
からかうような御影の声色に、一夜は半ばヤケのような言葉を返した。実際、道は複雑なものではなかった為ちゃんと覚えている。
ただ、今度は見送らないことが前提の言葉に全てを見透かされているような気がして、悔しかった。
一夜はそのまま何も言えず、一人、部屋の入口へと向かった。
「……篠崎はいつまで続けるつもりだ」
「え?」
部屋の扉へ差し掛かった所で問われ、一夜は思わず御影に向き直った。
一夜の視線が捉えた御影の表情は、何かを試すようにも、ただ会話を楽しんでいるようにも見える。
「続けるって」
「あの人形は、篠崎にとって凶器になりえないのか」
「……、」
御影のその言葉がそのままの意味でないことは、一夜にもすぐに理解できた。
動機の話だ。それこそ、先ほど御影にかき乱される前に感じていたことだ。
記憶の中の笑顔を奪った存在。目の前の、存在。
「……だって、あれは御影が貰ったプレゼントだろ」
解っていながら、一夜は伏せ目がちにそう答えた。
ある時は誕生日に受け取り、そして今日再び、今度は恐らく、クリスマスプレゼントとして送られてきた人形。
一夜に似ていたような気がすると、受け取って嬉しかったような気がすると、いつかの日、御影は一夜に語った。
「だから、俺にとっての凶器じゃない」
一夜は御影に凛とした視線を戻すと、はっきりとした声色で、そう告げた。
御影はその言葉にただ短く、そうか、と、笑みを浮かべて答えるだけだった。
……例えば。
こんな日に、こんなチャンスに、今ここで踵を返して、声を荒らげ襲いかかったならば。
“それらしい"結末に、なるのだろうか。
一瞬、一夜の脳内にそんな考えが浮ぶも、すぐに我に返り直前の思考は塵と化して消えた。
きっと、一夜が起こすその行動は真っ当なものとして世間に受け入れられるのだろう。
家族を殺された、ストーカーの被害に遭っていた、暴行されそうになった……それこそ、面白いくらいの様々な供述が、今なら用意されている。
だが、どうしても一夜にはそうする気が起きなかった。
それはきっと、こんな日にこの家には誰もいないことや、
(……今日一日、御影がどこか浮ついていた様に感じた理由が、解ってしまったせいだ)
一夜は一人納得すると、諦めにも似た小さなため息を一つ吐いてから、改めて、御影に向き直った。
「受験勉強に飽きたら連絡する。だから、俺より先に飽きるなよ」
「それは何に対してだ」
「色々」
どこか素っ気ない調子で御影へ言うと、今度こそ一夜は一人、御影の部屋を後にした。
待ちぼうけから始まった今日。
もしかしたら、自分を待たせた相手は、今でも待ちぼうけを食らっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、一夜はゆっくりと、寒空の下見慣れない夜の道を歩き出した。
————————-
2014.12.24
2015.12.11 加筆修正
2015.12.12 加筆修正
卒業
「もし篠崎が本当に俺を更生させたいと言うのなら、手っ取り早い方法を教えてやる」
放課後の図書室で御影がそう切り出したのは、前触れもなく唐突だった。その表情はいつもの、俺に何かを仕掛けるような微笑を浮かべていた。
この話題が出る少し前までは、卒業旅行に行く予定はあるのかだとか、大学に行ってからの目標はあるのかだとか、そんな話をしていた。
年も明けて早くも二月に入り、三学年の御影にとってはもう卒業が視野に入る時期だ。俺もこれから本格的に受験の年を迎える。
こうしてここで話をすることも残すは数える程だろう。そう考えれば、御影の切り出した話題は唐突ではあっても、流れとしてはおかしくなかったのかもしれない。
俺と御影は暗黙の了解の元、俺が『御影を正常に更生する』目的の為にこうした関係を続けている。
そしてそれはこの校内で顔を合わせられる間だけだというのは、以前から薄々考えていたし、御影もそんな俺の考えには気がついていた。
期限を否定しない理由はきっと「だらだらと引きずる気はない」という所なのだろう。実際、いつまでも続けることが健全な関係でもない。
俺は今このタイミングで切り出した御影の意図を薄々感じ取りながら、促すように「いきなりなんだよ」と少し遅れて言葉を返した。
「卒業が近いからな。世話になった後輩へのアドバイスとして切り札でも残しておこうかと思ったんだ」
「切り札って……、いいのかよ、御影はそれで」
自分から答えを差し出してしまうのは、御影の本意ではないようにも思える。
「篠崎を試してるんだ」
「試す?」
「"あの場所"からここまで選択を引き継いできたのだとしたら、きっとこれが篠崎にとって最後の選択だ」
俺を見据えた御影の切れ長の目元が、更に細まる。
「……なんだよ」
「いいか。もしもこのまま篠崎が望む結果へ俺を導けないのだとしたら――その時は、俺の両目を潰してしまえばいい」
「は……?」
冗談げもなく、本気の助言のように口角を上げて言った御影の言葉へ、俺はつい聞き返すような声を漏らした。
両目を潰す?
「それって、視力を奪えってことか」
「ああ、俺から視覚をとればいい。俺のはあくまで視覚情報が認識の邪魔をしているだけで、視力の無いあの場での感覚は普通だったからな」
「そうだったのか」
そんなこと、今本人の口から聞くまで俺は考えたことがなかった。言われてみれば、どうして思い至らなかったのだろうとも思う。
『人形に見えてしまう』ことが原因なら『見えなくしてしまえばいい』という、一番簡単な原理を考えたことがなかった。
きっと考えなかった原因の一つには、あの場所で御影にとって「視力が大切なもの」として扱われていたせいもあるだろう。
そして恐らく、多少自惚れた、御影の今までの発言を汲んだ解釈をするのなら、御影にとって視力が大事だったのは勿論読書の為などではなく、俺の姿を見る目的の為だったのだ。
そうして俺も、そんな御影の視界から自分の姿を消すなどという発想は抱いていなかった。
何故か。……どこかで、御影にとって唯一対等な自分が嬉しかったからだ。
「でも、だからって視力を奪うっていうのは酷じゃないか。それに物理的に何かをしないといけないんだろ? 俺、普通にそういうことしたくないし」
「勿論篠崎に俺の目を潰せとは言わないさ。その時は俺が自力で自分の目を潰す」
御影の声色はそれにも全く抵抗がないという具合だ。
「いや、でもそういうのはやっぱり」
「篠崎」
不意に、御影の冷静な声が俺の言葉を遮った。
冷静。御影はいつも冷静だ。でも、その声はやけに耳につく冷静さだった。
思わず御影の目を見据える。口元は緩く笑みが浮かんでいるのに、レンズの奥の人形めいた瞳は、普段の無機質さとはまた少し違う気がした。
「俺は両目どころか、かつて人の人生を奪った人間だ」
ああ、本当に試されているんだ、と感じたのと、その言葉が発せられたのはほぼ同時だった。
俺は言葉を失った。正確には、出てこなかった。
今、御影が発した言葉は暗黙の了解を破る言葉だ。
そうだ、御影の目がいつもと何か違うのは、本気だからだ。
俺の反応を見て臨機応変に弄ぶ分の余地がない。逆に言えば、俺は今本気で相手をされている。
御影といてあまり感じたことのない緊張が湧き上がった。
「実を言うと、俺は大学へ進学する予定はない」
「……え?」
まだ頭の中が混乱したままで、新たな疑問へは反動で声が返った。
「両親や教師には進学すると伝えてあるけどな。受験はわざと落ちるつもりだ」
「なんでそんな」
「何故だと思う」
問いかけはいつもの如く俺の反応を伺うようなのに、やはり明確な答えだけを求められている気がした。
今の御影は戸惑う俺の様子を楽しんでいるわけじゃない。ただ、自分の期待にだけ答えろと言っている。
それだけで、目の前にいる人物への印象は変化をもたらした。
怖い。もしかしたら今俺は、御影に対してそんな感情を抱いているかもしれない。
きっとこれは、俺が本来御影へ抱いているべきものだ。
心なしか、俺達の間に流れる空気も張り詰めていた。
俺はなんと言うべきなんだろう。御影はたった今し方、俺に対して終わらせるための下準備を施した。
俺への償いにその目を潰せと御影へ言えば、きっと御影は迷うことなくその要求を受け入れる。
それだけで、俺が求めていた結果は手に入るのだろう。本当ならばこうした迷いがおかしことなのだ。
言うべきなのだろうか。そのやり方でいいのだろうか?
確かに結果だけを求めるならばそれは間違った方法じゃない。だけど、そんな、臭い物に蓋をするようなやり方で得た結果に、俺は満足できるのだろうか?
――その時そこにいる御影は、本当に『正常』と言えるんだろうか?
元は御影だって、まともな世界を見ていたはずなのだ。俺はただ、そこへもう一度御影を帰したいだけだった。
この選択は間違えられない。御影と話していてこんなプレッシャーを感じるのは、初めてな気がした。
「……篠崎は本当に、人の変化にだけは敏感だな」
言葉に迷っているうちに、ふ、と、御影は急に表情を和らげた。
「だけはってなんだよ」
同時に空気も緩んだ気がして、俺も思わず軽口を返す。
たったそれだけのことで肩の力が抜けていくのを感じた。
「さっきの、進学する予定がないという話だけどな。俺は篠崎がどうであれ、卒業したら自分のしたことにはきちんとけじめをつけに行くつもりだ。だから進学はする気がない」
「もしかして、最初からずっとそのつもりだったのか」
「ああ、篠崎の考えに乗る、と言った時からそのつもりだった。あの時も言っただろう、準備は終えているんだと」
「……確かに、言ってたと思う」
もう曖昧になりかけている記憶ではあるが、確かに御影はあの日廃ビルの屋上で、橘の前で、準備は終えているから実行に移すだけだ、と言っていた。
それは世間に真実を明かす準備だったのだろう。そして同時に、あの時御影は意味がないと感じたら早々に終えさせてもらう、とも言っていた。
「少なからず死ぬ気はないから安心しろ。篠崎の行動に見切りをつけたわけじゃない」
そう言って、御影はようやく呆れが混じったような、見慣れた微笑を浮かべた。
相変わらず俺の考えを読んだようなフォローに、心地よさすら感じるのが奇妙だった。
「篠崎は最終的に、俺にはどうあって欲しい? 少なからず、他人の痛みに共感できる人間になっていて欲しいんじゃないのか」
「そうだけど……、でも、御影が言ったような乱暴なやり方は腑に落ちない」
「なら、篠崎にはそれ以外の具体案はあるのか」
「前に、御影が言ってただろ、自覚できているものは直せるんだって。だから、俺がそう求めればいいって」
「そうだな。だからその、篠崎の求める直し方を聞いているんだ」
「俺が、もうやめようって言えばいいのか」
「それは期待はずれだな」
「じゃあなんだっていうんだよ」
俺はもどかしさからくる多少の憤りを覚えながら、御影に反論する。
御影が何を求めているのかが全く解らない。
いつだってそうだ。御影の要求は俺に関することばかりで、御影自身の願望を聞いたことがない。
人生に飽きていつ死ぬかを考えていたと言うくらいだから当然なのかもしれないけど。
さっき話した卒業旅行の話だって、御影は外国の穴場や名所に興味があるとは言っていたものの、楽しみに行くというよりは暇つぶしのような印象が拭えなかった。
もしも俺が御影に対して許せないものがあるとしたら、そういう部分なのだ。
俺の家族を殺したことに対しても御影はそんな感覚なのだろう。けれどきっと、それに対する俺の感情は御影もきちんと感じ取っている。
だから俺じゃなければだめで、いつでもことがややこしくなる。
でも俺が最終的に求めているのは、俺じゃなくてもよくなる事なのだ。
「突然変なこと、聞くけど」
「なんだ」
御影は期待を含んだ視線を俺に向けた。
「御影は、俺に好かれてて嬉しい?」
口から吐き出された言葉は恥ずかしい部類のはずなのに、その声は自分でも驚く程落ち着いていた。
「考えたことがなかったな」
対して、御影も話し合いのように真面目な声色で返した。
「そうなのか?」
「そもそも好かれてたのか、俺は」
「……俺が今まで御影と過ごしてた時間をなんだと思ってるんだよ」
「篠崎なりの遠まわしな嫌がらせかと思ってたよ」
俺は非難の視線を送る。
「悪い、流石に稚拙な冗談だったな。まあ、なんにしても篠崎に向けられる感情を嫌に思ったことはないよ。それがどうかしたか」
「俺に好かれる罪悪感は無いのか」
「……成程?」
御影は相変わらずの楽しげな表情のまま、納得するような声を発した。
きっと俺のこの発言は、先ほど御影が暗黙の了解を破らなければ出てこなかった言葉だ。
あの時点で、もう俺と御影はただの先輩と後輩じゃない。明確な加害者と被害者だ。
騙し騙しの関係に終止符を打つところまで、今、俺たちは来ているのだ。
「無いといったら、篠崎はどうするんだ」
「御影のこと軽蔑できる。両目を潰せとも言えるかも知れない。……でも、同じくらい御影がどういうやつかも知ってる」
だからこそ、何もなければよかったと、せめて更生できないかと、知らないふりをしてまでこうしてこの関係を続けてきた。
「御影が卒業で区切りをつけるつもりなのは解った。だから、それまで俺の決断は待って欲しい」
「ああ、構わない」
そしてその時御影が求めるのはやはり、俺に復讐させる手段なのだと思う。
「それまで、俺は変わらずここに来る。……でも次からはもう、ただの先輩には会いに来ない」
「なら、俺もそれ相応の立場で対応するさ」
「ああ。あとは俺が御影に答えを言うとき、御影にも答えて欲しいことがある」
「なんだ」
「この先御影が、自分自身のためだけに望むことを考えておいて欲しい。……できたら、俺の答えで踏みにじれそうなやつ」
最後の方は冗談交じりに告げてみれば、御影はどこか満足そうな表情を浮かべた。
俺はその表情に、一抹の悔しさを覚える。
気がついてしまったのだ。きっと御影の更生の邪魔をしてしまっているのは、他でもない俺自身だと。
俺じゃないと出来ない。でも、俺だから出来ない。
俺が御影に出来るのはせいぜい痛みを思い知らせることくらいだ。御影が俺の考えに付き合っているのだって、それが御影にとって面白そうであるからなだけで、御影自信が望んでいるわけじゃない。
なら御影にそれを望ませればいいと言ったって、俺のその考えは御影がこうしている段階で御影に伝わっている。それで何も変わっていない時点で、最初から消化試合だったのだ。
結局御影はまた最初から答えを知っていて、それを隠しながら俺の行動を楽しんでいた。
それとも、俺が御影にもっと人生を謳歌したくなるような、そんな楽しさを刷り込んで説得し続ければいいのだろうか?
その欲求が生まれれば、きっと御影は間違いなく、自分のしたことに重度の後悔を覚える。自ら正常な感覚を求めるようにもなるかもしれない。
でもきっと、その役目は俺にはできない。御影は、そんな俺の思惑を見られればそれだけで満足してしまうのだから。
最早御影には、俺以外の興味が必要なのだ。
お互いの立場を改めて認識し直した今、何もかもが手の届かないもので、悔しかった。
「今日のところはこれで」
俺は一人鞄を手にして立ち上がる。もしかしたら、少し険しい顔をしてしまっていたかもしれない。
御影はまだ帰らないようで、短く返事をすると読みかけだった本を手にしていた。
きっと俺は、御影が提案したとおり、最終的には両の目を潰せと御影に要求するだろう。俺は御影に、それを要求出来るだけのことをされている筈だ。
もしかしたら、御影自身ももう引き返せないものを感じているのかもしれない、とも思った。御影の中で自己完結するはずのものに、俺が、触れてしまったから。
なら俺はせめて、御影なりの贖罪を後押しするべきだと思った。少なからず、それは御影にしては珍しい、御影自身の要求でもある。
――御影の中にある色々なものを知ってしまった以上、俺には、御影を完全に地獄へ突き落とすだけの気概は抱けなかった。
もし今、御影がかつての、認識が正常だった頃まで戻ったとしたならば、きっとその感覚は御影を確実に苦しめる。理不尽に命を奪われた家族のためにも、そうなることを望むべきなんだろう。
でも、俺にはできなかった。そこまで、御影を否定することは、できなかった。
卒業式まで、残りの時間は一ヶ月ほどだ。
俺はその間に準備を進める。
それはお互いの、新たな門出の為の準備だ。
校門を抜ければ、向かい風が俺の髪を揺らした。
肌に触れる二月の風は、まだ十分に冬の気配を含んで、俺の肌を刺していた。
2017/02/04
" selection "
「……なにこれ」
それが、咲人の自宅へ初めて招かれて、咲人の自室へ足を踏み入れた時の第一声だった。
部屋の一角に、色も種類もまとまりなく物が置かれたスペースがある。
適当に散らかっていれば単に片付けていないだけか、と思うのだが、妙に整っているところが不可解だった。
「あはは、一夜も予想裏切らなかった!訳わかんないっしょ?」
「ああ。というか自分で訳わかんないって言うなよ」
「だって自分でも訳わかんないし」
「なんだそれ……」
「えーっと、一応説明すると」
言いかけて、咲人は一先ず適当に座りなよ、と俺に促す。
互いに適当な位置に落ち着くと、咲人は再び話を再開した。
「店とかで一目惚れしたものを置いておくスペースっていうか」
「……その一目惚れっていうのは、色の話か?」
「そそ。衝動的に買っちゃったやつとか」
「それならそれでもうちょっとこう、置き方があるような気がするけど」
「いやいや、俺的にはあれにもちゃんと意味があるんだって」
「そうなのか……」
恐らくそれは俺には解らない、咲人の色に対する見方の違いが出ている部分なのだろう。
「まー、このへんの話は友達もあんまり理解してくれないし、俺も説明難しいから良いんだけど」
「多分、俺も説明してもらってもちゃんと理解できないと思う」
咲人が色に対して特別な思い入れの仕方をしていることや、色の認識の仕方も俺とは違うかもしれない、という話は
以前から度々聞いている。
実際に会うことが増えてくるとそういった部分もよく見えるようになり、なんとなくは、理解できてきたような気はするのだが。
理解すればするほど解らなくなる、という、矛盾した奇妙な段階に、最近は入ってきていた。
咲人自身も特別理解してもらうことを望んではいないようだし、理解できないならできないでも良いのだろうが。
……そこは少し理解してみたい、と思う気持ちも少なからずはあった。
単純に、咲人にこの世界はどう見えているんだろう、という好奇心でもあり、
同じものを見れない、と言っていた咲人の言葉に、同じものを感じてみたり、というのもあり。
「この部屋に初めて来る人って、大体一夜とおんなじ反応するんだけど」
奇妙なオーラを放った一角を見ながらぼんやり考えていると、咲人の言葉が続く。
俺は視線を咲人に向けて、話に耳を傾けた。
「隆弘は例外だったよ」
「何にも反応なかったのか?」
「んー、気にはなったんだろうけど、どうでもよかったんだろうね」
「でも別に、無関心な奴ではなかったんだろ?」
「うん、だと思うよ。ただ、隆弘の興味の矛先がどこに向かうか説明しろって言われても、俺できないかも」
「……」
橘というのはいまいち解らない奴だな、と考えを巡らす。
そもそも、今日こうして咲人の部屋に来た発端は、俺が咲人に橘の事を色々教えて欲しい、と頼んだのがきっかけだった。
それなら今度家にでも来て、ゆっくり話でもしよう、という流れで今に至る。
橘のことをなんとかしたいと言う咲人に、少しでも協力できないかと思っての申し出だったが。
雲行きは怪しいような気がする。
「……咲人って橘とは高校で知り合ったんだよな?」
「そう、おんなじクラスで普通に仲良くなった感じ」
「なんか、話聞いてると咲人が橘と仲がいいって不思議な感じするんだけど」
「あー、それもたまに言われる。前に話したかもしれないけど、俺、あいつの描く絵が好きだったから」
「……それは、橘の描く絵の方に惹かれて一緒にいたってことか?」
「やー、そういうわけじゃないよ。隆弘の事は普通に好きで仲良くしてたし、あくまできっかけだっただけで」
「きっかけ?」
「部活決めるときに、見学するじゃん?」
「ああ」
「俺暫く帰宅部でフラフラしてたんだけど、思いつきで美術部覗いたことがあって、
で、その時隆弘が何か描いてて、それがきっかけで仲良くなった感じだったから」
「ああ、成程」
「それからずっと思ってたのは、隆弘ってあんま物事に興味ないんだなーって。
その辺、お兄さんとよく似てたと思う。……そういえば一夜、直人さんに会ったことないの?」
「……あるんだろうけど、はっきり覚えてないんだよな」
橘家の長男であるなら、必ず何かしらで一度は会っている筈なのだ。
だが、その兄が死んだ話も咲人から聞くまで知らなかった。
どんな顔をしていた人だったか、と聞かれても、それを述べられる記憶は俺の中には無い。
本当に、事件関係の記憶は抜けてしまっている。
「二人とも、顔とかも似てた?」
「まあ普通に兄弟って感じ。なんか不思議な兄弟だったと思う、殺伐とした仲の良さっていうか」
「また絶妙なたとえだな……」
とはいえ、二人のことは良く知らないがその言葉は的確なイメージを掴んでいるような気もした。
「……何で死んじゃったかな直人さん……」
不意に咲人が呟く。
その言葉に咲人を見ると、その目は遠いどこかを見ているように天を仰いでいた。
「今直人さんがいたら、解ってた事もっと沢山あったかもしれないのに」
「……まあ、重いだろ、やっぱり、色々と」
「解るんだけどさ。多分、俺も一夜の事が無かったら同じようなこと考えたと思うし」
「自殺するかもしれなかったのか?」
「なんか、悔しさとか、申し訳なさとか、不甲斐なさとか、色々一気に伸し掛って、
直人さんと隆弘は家庭内でも特に絆が強かったから、尚更じゃないかな」
相変わらずの表情で続ける。
「俺の場合はどっちかっていうと一夜に寄るところが大きいけど」
「そうなのか?」
「全く何も思わなかったわけじゃないけど、隆弘の時点では簡単に死ぬ選択取るのはあんまり気が進まなかったし。
だから、一夜がこうやって目覚ましてくれて良かったと思う。無かったら結構本気で死んでたかも」
「……」
「あの夢のことがあったから尚更ね。あれがなかったら一夜のことこんなに好きになってないだろうし」
「……まあ、俺はそういう咲人に助けられたわけだし」
さらりと言い流された言葉に若干の照れくささを感じつつ、そう返す。
「……ほんと俺、もうちょっと勉強頑張ってればよかった」
と、脱力するように壁にもたれ掛かりながら唐突にそんなことを言い出した。
「なんで」
「そしたら一夜とおんなじ学校いけたじゃん!今頃一夜の後輩じゃん!」
「あー……まあでもそれは仕方ないだろ」
「ていうか一夜うちの学校志望校に入れてたんだよね?こっち来てくれればよかったのに」
「いやだって遠いだろ、こっち」
「朝起きるの早くなるだけじゃん!」
「いや、そこが重要だろ」
「……でも、冗談抜きの話でさ」
ふと咲人の表情に影が落ちる。突然変わる咲人のこの表情は、いまだはっとしてしまう。
「一夜がこっちの学校来てて、隆弘は一夜に会ってて、俺もそこにいて」
「……」
「そしたら何も起こらないで丸く収まってたんじゃないかって、考えることあるよ、俺。
隆弘も、一夜も、なんで上手く噛み合わなかったんだろ」
「……」
ああだったなら、こうだったなら。
そんな今更どうにもできない想像ばかりが浮かんでしまう。
「……一夜は、やっぱりこっちの学校来るべきだったんだよ」
ぽつり、と言う。
まるで駄々をこねるようなその言い草に、思わず苦笑いが浮かんだ。
……選択をしたのは、俺だ。
全て、自分が選んで歩んだ道なのだ。
あの、事件があった日のことさえも。
「……そういえば咲人、お前あの制服問題ないのか?」
暗くなった空気を変えたくて、話題を逸らすように切り出す。
「ん、制服?」
咲人も表情を戻して答える。
「あそこ学ラン校だろ?着てるところ見たことないけど」
とはいえ、あそこの学校はそういう生徒をちょくちょく見かける。
見かける度に、校則的に大丈夫なのかと気になっていた。
「あー……暗黙の了解?」
「本当はアウトなんだな……」
「服装チェック厳しい時期は言われるけどそれ以外は特に」
「着ないのはなにか理由があるのか?」
「いや、単純に俺似合わないから」
「……そうか?」
「そう!」
「そうか……」
……何となく念を押されたような気がする。
なにか理由がありそうだが、それ以上は触れずに置いた。
その後、二人で他愛ない時間を過ごして共にバス停へと向かう。
グラデーションを描き始めた空は、今日という日が終わっていくのを感じさせていた。
「……俺、昼間、一夜の選択が間違ってたみたいな言い方しちゃったけど」
「うん?」
静かに切り出す咲人の言葉に耳を傾ける。
「……きっと一夜が隆弘と会ってたら、俺は今こうしてなかったよね」
「……かもしれないな」
「そう考えると、丸く収まってれば良かったって言えなくなるかも」
「……」
「一夜がさ、隆弘がどうでも一夜が選んだのは俺の方だって言ってくれたの凄く嬉しかった。
多分、今その言葉に凄く甘えてると思う」
バス停に着くと、もうさほど待たずにバスがやってくる時間だった。
「俺も、ちゃんと一夜にそう言えるようにする」
「……こうやって居てくれるだけでも十分だけど」
「や、それは俺自身がすっきりしないというか。一夜に好きっていう度後ろめたくなるのも、やだし」
「……そうか……」
そんな会話をした所で遠方からバスが姿を現した。
「じゃあ、今日はサンキュな」
「おー、またなー」
バスに乗り込み、車窓から改めて咲人とやりとりを交わす。
咲人の笑みが見えなくなった頃、窓から視線を外した。
……過ぎたことを考えたって仕方がない。
選んだ結果が、今、ただここに存在している。
それでも、過去の選択を悔やんでしまうのは、
それが、ほんの僅かなすれ違いだったせいなのかもしれない。
そういえば、短気は損気だとあの夢で咲人に言われたような気がするな、と、ふと思いだす。
……全くだ。
車窓から流れる景色をただ見つめる。
辺りは、すっかり夜の装いを纏っていた。
2012.0529
" Birthday0821 "
8月も中頃を過ぎた、夏休みのある日。
篠崎一夜は、雑貨屋店内の一角で、携帯電話の画面を見つめていた。
開かれた携帯の画面には、「誕生日に欲しいものとかある?」と、件名もなく、ただ短い一節が映し出されていた。
送信先の名前には「秋山咲人」の4文字が並んでいる。一見すれば友人に対するなんてことのない問い合わせメールだが、二人の関係は去年のある堺から友人ではなく、恋人だった。
一夜が携帯の画面を見ながら立ち尽くし始めて、かれこれ15分程になる。
元々行動派であまり迷うことの無い一夜がこんなにも送信に迷っているのには、理由があった。
一つは、直接問い合わせれば十中八九、「そういう気遣いはいらない」と返ってきてしまうだろう、という事。
一夜の親族は、去年、一人の男子高校生の手によってこの世を去っている。
そして、その犯人とされている男子高校生……橘隆弘の親友が、咲人だった。
咲人はその事実を信じておらず、また、一夜も咲人のその考えは支持している。だが、世間的には、事件の犯人は橘隆弘だとされている。
そういった事情から、咲人は一夜に対し、少々遠慮気味な一面があった。
もう一つは単純に、何も言わずプレゼントをして、その反応を見たい、という好奇心だった。
裏表の無い咲人が受け取った時にどういった反応をするかは、想像に容易い。その想像の反応を、実際に見たかった。
ただ、一夜には、何を渡せばその反応が返るのかが解らなかった。
恐らく、何を渡しても喜んでくれるだろうとは思う。けれど折角ならば、より喜んで貰えるものを渡したい。
一夜がそこで迷う理由は、咲人の性格の面にあった。
咲人は、『人より少し色彩に対して愛情の度合いが強い』という特徴を持っていた。
そして同時に、『人と色に対する感覚が違うかもしれない』とも言う。
つまり、一夜自身の感覚がどこまで通用するのか解らない。咲人の部屋にある、本人が「色で一目惚れした物を置くスペース」と称している一角を、一夜が未だに理解しきれていないことからも明白だった。
だからといって単純な選択に走ると、既に持っていたり、今までの誰かと被りそうで不安だった。
咲人と過ごした塔の夢の中で、一夜の描いた絵が見てみたい、と言われたような気もするが、生憎と、一夜にとってそれは論外の選択だ。きっと咲人は出来なんて気にしないのだろうが、 胸を張って渡せないものを渡すという行為を、できるならばしたくなかった。
そんな堂々巡りの思考を、かれこれ十数分、一夜は続けていた。
(……やっぱり直接聞くのが無難か。変なもの渡して気を遣わせるのもあれだし、最近は前より立場のこと気にしなくなってる気がするし……)
迷った末、結局一夜はそう結論付けて送信のボタンを押した。
咲人の返信は大概早い。一夜は恐らくそう待たずに返信があるだろうと踏んで、再び店内を物色し始めた。
いらない、と言われてしまったら、素直に諦めるつもりだった。渡せないのは残念だが、無理に押し付けるものでも無い。
案の定、数分後にメールの着信を知らせて震えた携帯を確認する。
『プレゼントはいらないから一夜に会えればいい。一夜に会いたい』
「……」
少し予想とは違った文面に、一夜は店内で動揺を堪える羽目になった。
一旦店を出て、落ち着いてから返信しよう、と出口に向かった時、ふと目に入る。
「……」
一夜は暫し悩んだ末、それを手にしていた。
プレゼント用に、とレジで申し出て、数分後包まれたそれを受け取り今度こそ店を出る。
(いらないって言われたけど)
やはり想像の中の反応を、実際に見たいと思った。
持っている可能性だとか、気に入るかだとか、細かいことは、もう、この際気にしないことにした。
***
8月21日。
約束通り、一夜はバスで咲人の元へ向かっていた。
会うのは何日振りだろう、と、近づく待ち合わせのバス停へ続く風景を見ながら一夜は思う。
誕生日には絶対会おう、と約束を取り付けた事自体は、8月に入って間もなくだった。
一夜は受験生ということもあり、あまり遊ぶ時間は無いものの、互いに折角の夏休みということもあり7月の内は度々揃って遊びに出たりしていた。
そして8月に入り、今日の約束を取り付けた際、咲人の方から「誕生日までは会わない」と宣言された。
一夜が聞いた理由は簡単で、それまでに夏休みの課題を全部片付けるから、というものだった。
一夜は手伝おうか、と申し出たが、絶対逆に手につかなくなるからいい、と、半ばやけ気味に却下された。
時折ぼやきのようなメールを受け取ってはいたもののそれだけで、宣言通り、あれ以来顔を見ることも、声を聞くこともしていない。
先日のメールに、一夜は「会うの楽しみにしてる」と、端的に、最も伝えたい言葉を返した。
「一夜!」
バスを降りてすぐ、夏の熱気と、蝉の鳴き声と、暫く聞いていなかった声に出迎えられた。
流石に行動には出なかったが、気持ち的には抱きつかれそうな、そんな勢いを含んだ声だった。
「久しぶり」
「久しぶり!うわー、一夜だ!」
咲人の露骨な反応に、一夜は照れ臭さを覚えつつも窘めるような相槌を返す。
そのまま夏の日差しが降り注ぐ道のりを、二人で歩き出した。
「無事終わったのか?課題」
「完璧!めっちゃ頑張った!」
「結構多かったのか?」
「や、そんなでも無いと思うよ。ただ、課題図書の読書感想文があったから、それでちょっと時間食った」
「ああ、なるほどな。……やっぱ読書苦手?」
「まー、読書好きとか言ったら大抵信じて貰えないよね。実際物理的にも行動的にも苦手だけど」
「……物理的?」
「一夜は受験勉強とか順調?」
「ん?……まあ可もなく不可もなく」
「そっかそっか。……大学結構遠く受けるんだっけ?」
「一箇所はそうだな……、後は、隣町のとこの大学」
「そっかー……」
しみじみと相槌を打つ咲人に、一夜は疑問を含んだ視線を向ける。
「今から頑張って同じとこ視野に入るかな」
「……まあ、俺が無事受かって咲人がその気なら、勉強とか手伝うけど。というか、咲人自身に行きたい所は無いのか?」
「んー、微妙」
「微妙って」
「無いことも無い気がするんだけど。……今月たった2週間近く会えなかっただけできつかったからなーって」
「学校始まったらまたそんなには会えなくなるだろ」
「そうなんだけど。まー取り敢えず今はいいや」
「いいのか……」
「あ、そう言えば誕生日っぽいものとか特別用意してないけどいいよね?」
「ああ、咲人がそれでいいなら俺は別に」
「うん、今日は一夜がいれば満足」
「……そうか……」
度重なる咲人の発言に、本当に会いたかったんだな、と一夜は実感する。
その気持ちに、嬉しいような、むず痒いようなものを感じた。
咲人の自宅へ着くと、そのまま咲人の自室へ招かれる。
家の人間は皆出ているようで、家の中に咲人と一夜以外の人の気配は無かった。
隣室の窓が開いているのか、ずっと聞こえている蝉の声に、風鈴の静かな音色が度々混ざる。
咲人が徐にクーラのスイッチを入れた所で、一夜は鞄の中に眠るプレゼントをいつ渡そうか、と思考を巡らせた。
「一夜って暑いの苦手だっけ?」
「え?あー、苦手ってほどでも」
「そっか、多分後で扇風機に切り替えるから」
「ああ、うん、大丈夫」
そんな会話を交わして、ようやく一夜は、そう言えば会ってはいたけど夏にこの部屋に来るのは初めてだ、と気がついた。
出会ってから色々あって、二人で迎える初めての相手の誕生日。月日の流れを感じると同時に、こうして今日という日を迎えている自分に少しだけ不思議な気分になった。
互いに大体決まった場所へ落ち着くと、一夜はちらり、と、初めて見た時目を奪われた一角を見やった。
部屋を訪れていなかった間、特に何かが増えた、ということは無いように思う。
ふと、そんな確認をしている自分が何となく恋人の浮気の証拠でも探しているように感じて、一夜は改めるように咲人に向き直った。
「ええと、早速だけど、誕生日おめでとう」
「おー、ありがと!おかげさまで無事17歳になりました!」
冗談気に言って咲人が笑う。一夜はそんな咲人に同じ物を返しつつ、鞄の中から先日用意したプレゼントを差し出した。
「え?マジで?」
本当に何も受け取る気は無かったのか、意表をつかれたような声を上げて、咲人は一夜からシンプルに梱包された、然程大きくはないそれを受け取った。
「いらないって言ってたんだけど、目に付いたから。なんなら誕生日とか関係なしに貰ってくれると嬉しい」
「いやいや!ちょっと本気で予想してなかったから驚いてるけど。うわー、マジで?」
言いながら開封する咲人を見て、一夜はああこの反応が見たかったんだ、と実感する。
少しして咲人は、包の中から10センチ程の、白を基調に装丁され望遠鏡にも似た、筒状の物を取り出した。
一瞬なんだろう、と不思議そうな表情を見せるもすぐに察したようで、おお!、と声を上げる。
「万華鏡だ!」
言った次には覗き込んでいた。
「……説明書のどこかに書いてあったと思うけど、偏光板で出来てるから模様の素になってるのは無色透明のプラスチックだって。こういうのって咲人向きかと思って」
「俺これ家宝にする」
「それは大袈裟」
冗談気なやりとりを一つ交わして、一夜は安堵するように小さく息を吐いた。
「まあ、気に入ってもらえたようでよかった」
「一夜のくれるものならなんでも嬉しいけどね。でもこれは俺の事考えてくれたんだなって凄く解って特に嬉しいかもしんない」
咲人は一通り回転させたりを繰り返すと、万華鏡を袋に戻して、改めて有難う、と一夜に礼を言った。一夜も改めてどういたしまして、と返す。
「俺の色に対しての事知ってる人って、やっぱみんな色に着眼した物をくれるんだけどさ。プレゼントって物を貰えるのが嬉しいっていうより、考えてくれたその時間が嬉しいものだと思うし」
「……因みに、今までどんなの貰ったんだ?」
「えーっと、色辞典とか、500色位入った色鉛筆のセットとか、惑星をイメージしてるっていう石鹸とか、普通にアクセくれた人もいたし、ネタでビー玉とかも貰った」
「なるほど……」
その人たちの思考は大体理解できるような気がした。
「色とか関係なかったら大抵辛いものくれる。ご当地ものとか、やっぱネタ系のやつ」
「ああ……」
ふと、一夜はその方向もありだったんだ、と気がつくも、もう過ぎたことなのですぐに気にするのをやめた。
「後は、絵かな」
少しだけトーンを落として、咲人が続ける。
「絵?……手書きの?」
「そう」
「それは……、」
誰から、と聞こうとして、瞬間に思い当たる。
咲人の周りにいた人間で、絵に関する話題を持つ人物は、一夜の中では一人しか思い当たらなかった。咲人の様子からしても、恐らく、その予想は外れていない。
「橘か」
「そう、隆弘。俺がずっと隆弘の絵が好きだって言ってたからだと思うけど」
「それは今手元に無いのか?」
「うん、学校の美術室。多分隆弘が最後に書き上げた絵だと思う。俺の知ってる範囲だけど」
「そうか……」
「見たいの?」
「まあ、前々から橘の絵に興味はあったし、あと、咲人が好きだっていう橘の色使いがどんなのかも知りたい」
「そっか、じゃあ今度機会があったら見せる。きっと隆弘も一夜に見て貰えたら喜ぶと思うし」
「ああ……」
そうして、何となく沈黙が訪れる。
会話の途切れた室内に、途切れる事を知らない蝉の声と隣室の風鈴の音が鳴り響いた。
以前に比べれば、咲人はずっと自分に対して積極的になったと一夜は思う。橘に対する蟠りはそうそう軽く流せるものでは無いと解っているから何かを強要することもしないが、 こうして橘の話題で少し空気が変わるのはいつまで続くのだろうかと、気にならないと言えば、それも嘘だった。
「あ、俺飲み物取ってくる。ごめん気づかなくて」
「ああいや」
というか本来それは自分が気を使ってくる部分じゃなかったのか、と自分を戒めつつ、一夜は部屋を出て行く咲人を見送る。
咲人が戻るまでの間、一夜は再び例の一角に視線をやった。
何度見ても、一夜には不統一に物が置かれているだけのように思える。
(……一目ぼれか……)
例えば、と一夜は思う。
咲人にとって、この先自分以上に愛しいと思うような色彩との出会いがあった時、果たして自分の存在は咲人にとってどんなものになるんだろうか、と。
やはり恋人の間に起こるいざこざのように、二人の関係を見直すやりとりが発生するんだろうか。
「……」
只でさえ同性同士で厄介な関係だというのに、更にそんな普通じゃ絶対起こらないであろう心配事まで発生して、自分の人生はやっぱり大分レールを踏み外しているんだろうかと考えた所で、飲み物を手にした咲人が部屋へ戻ってきた。
「サンキュ、悪い」
「いやいや」
グラスをテーブルに置くと、咲人は先程の宣言通りクーラーから扇風機へ切り替える。そう言えば前にクーラーの冷気が苦手だって言ってた気がするな、等と思いながら一夜が咲人の行動を見ていると、今度は一夜のすぐ隣へ腰を下ろした。
一夜は一瞬だけ驚くも、特に異論も無い為何も言わずに咲人の出方を待つ。
「……2週間凄く長かった」
「ちょくちょくメールしてただろ」
「してたけど!……ほんと少しじゃん」
「でもその分ちゃんと頑張ったんだろ?」
「めちゃくちゃ頑張ったし!多分過去最速だと思う、片付け終えたの」
「てことは咲人ってやっぱり意思強いんだな、そういう所純粋に尊敬する」
「や、理由があったから頑張れただけだと思うけど。……所で一夜、さっき何見てた?」
「何って?」
「俺が部屋戻ってくるとき、なんか見て考え事してた」
「ああ……」
咲人の問いに、一夜は再びあの一角へ視線を戻す。
「あれ、咲人が一目ぼれしたって言ってたやつ」
「あはは、やっぱ意味解んない?」
「ああ、悔しいけど」
「最初に一夜が部屋に来てから、増えてないっしょ?」
「やっぱ増えてないのか。俺が気がついてないだけかとも思ったけど」
「増えてないよ。一夜に会ってからは増えてない」
「……そうなのか」
「俺の初恋の話って、一夜にしてないよね?」
「ああうん、聞いてないと思う」
「因みに、一夜は?」
「……」
咲人の問いに、一夜は少しだけバツの悪そうな、照れくさそうな表情を見せる。
「あー、なんか言いにくいことならいいけど」
「いや……、咲人」
「……え、あれ、マジで?」
一夜の言葉が意外だったのか、咲人は驚いたような声を上げる。
「俺、昔からなんかそういう事に全然興味なくて、だから正直言うと初めて好きになったのが咲人っていうのは俺自身も色々戸惑う部分はあったんだけど」
「へー……」
「……なんだよ」
「や、一夜結構女の子受けよさそうだし、付き合うとかなくてもなんか少しくらいあったんじゃないなーとも思ったんだけど。まー確かに興味なさそうだもんね」
「そこで納得されるのも少し複雑だけど」
「あはは、いいじゃん、それ結構嬉しいよ、俺」
「……そういう咲人はどうなんだよ」
「うん、この話聞いた人、大抵よく解んなそうな顔するんだけど」
「……」
その前置きで、一夜は咲人の初恋がどういうものかを大方把握する。
「多分あれが、自分が色に対してちょっと異常だって確信した、きっかけだったと思う」
***
大勢の人が行き来する、駅前の街路。
その場所に、つい一時間時ほど前からベンチに座って、一点を見たまま動かない少年の姿があった。
駅の建物に掲げられた、大きな看板広告。
数ヵ月後に行われるらしい、有名なアーティストの、画展の告知看板だった。
その看板を占めるのは、繊細に描写された静物画でも、何かを訴え掛ける空想画でもなく、
ただ、作者を代表していると思われる、「単一色」だった。
それをただ、咲人は魅入られた様に眺めていた。この時、咲人は中学に上がって一年目。
夏休みも間近の、蝉の声がどこからか聴こえていた、夏の日だった。
この日、咲人は一人、電車で少し離れた街へ買い物に出ていた。
わざわざ少し遠くまで来たのは、ただの気まぐれだった。或いは、明るい7月の日差しに乗せられた、冒険心だった。
電車を降りて、駅を出て、すぐに咲人の足は止まった。
振り返れば目に入った、大きな広告看板。そこにただ、佇む色彩。
吸い込まれるように、咲人の視線はそこへ釘付けになった。
昔、知らない男性にベンハムの独楽というものを見せてもらってから、度々、色に対して強い興味を示すことはあった。
周りの人間と、少し、色に対する感想が食い違っていると感じることもあったが、それすらも、面白いことだと感じていた。
この時まで、咲人は自分はただ、人より少し感性が変わっているだけなのだと思っていた。
親にも、「この子は少し変わっているんだ」、だとか、「芸術家肌なところがあるんだ」、だとか、そういう事を言われてきていた。
色彩が脳内を占めて動けなくなるまで、咲人はその考えを、微塵も疑っていなかった。
ぼんやりと看板を眺め始めて2時間近くになろうとした頃、ようやく買い物の存在を思い出して、咲人は名残惜しさを感じながら立ち上がった。
その色彩から離れるのが酷く寂しいと感じた時、ようやく、咲人は自分の色に対するそれが、人と少し違うという事に気がついた。
咲人の感じたその感覚は、恋愛感情のそれに近かったからだ。
どうせまた帰りに同じ道を通るのに、その数時間の間が惜しい。できるなら、近くにいたい。
抱きしめたい、とすら思った。
結局、そんな大きな公共物をどうにか出来る訳もなく、咲人はその色彩を脳裏に焼き付けて帰った。
看板が撤去されるその日まで、思い出しては、その看板の前に足を運んだ。友人と遊びに出たこともあったが、咲人の感覚を理解してくれる人間は、それが芸能人の写真に変わるまで、遂にいなかった。
***
「以上が俺の初恋のお話です」
軽い調子で、咲人は笑顔で締めくくるように言った。
一夜は言葉に迷った様子で、ただ、咲人に視線を送っていた。
「後から知ったんだけど、その看板の画展開いた人、『色彩の美』が売りの人だったんだよね。俺、それ見に行ったんだけどさ」
「……どうだったんだ?」
「普通に良かったよ。でもやっぱり、その看板のが忘れられなかった」
「そうか……」
「あ、その看板携帯に写メったのあるよ!見る?」
「ああ……」
ちょっとまってね、と、咲人はどこか楽しげに携帯を取りに立ち上がる。一夜は何となく複雑な気持ちを抱えたまま、咲人の行動を見守っていた。
少しして、携帯を手にした咲人が再び一夜の隣へ戻る。
「これ」
そう言って差し出された携帯の画面には、確かに、一枚の看板が映されていた。
「……」
それを見て、あれ、と一夜は思う。
「撮ったんだけどさ、やっぱ駄目なんだよね。カメラ通すと色合い変わっちゃうから」
「ああ……そうだな」
「……どうかした?」
「いや……」
有難う、と一夜は画面から視線を外す。
咲人が心を奪われたという看板の色。
一夜はてっきり、もっとはっきりと存在を主張した色だと思っていた。
「あのさ、咲人」
「んー?」
「……もしさ、今またその看板がその駅前に出されたとしたら、どうするんだ?」
「どうするって……」
一夜が見た、看板の色。
咲人が言った通り、性能にも限界のある携帯カメラのレンズを通して、色合いは変わっていたかもしれない。
だが、それでも一夜は、その色を見たことがあるような気がした。
咲人が静かに携帯をテーブルへ置く。
殆ど手のつけられていない、水滴を纏ったグラスの中身が、振動で小さく揺れた。
「……なんで俺が一夜にこの話したと思ってんの」
「それは……」
脳内に蘇る光景に気圧されて、一夜は言葉に詰まる。
咲人がそのことを知るはずもない。あの場所で、咲人は色なんて解らなかったのだから。
だがその色は確かにあの場所にあったように思う。常に、咲人がいた、あの3階の部屋に。
ここに来てようやく、一夜は色力を奪われるという本当の意味を知った。
色のない部屋で色を奪われるという、一見意味のなさそうなその事象意味を、やっと理解した。
そしてその意味は咲人自身が一番良く理解しているはずだ。
白一つでも色々な白がある。それを感じ取れるのが色彩力だ。
あの場所で咲人の周りに溢れていたその色は、もしかして、咲人が求めた看板の色に最も近かったんじゃないだろうか。
結局一夜は言葉を続けられず、そのまま口を閉ざす。
今更浮かび上がった事実に、ただ、不安が渦巻いた。
あの場所で奪われていたものの意味の重さを、一夜は漠然とだが、覚えている。
「……そんな簡単に揺らぐ可能性があったらこんな話出来るわけないじゃん!隆弘の話みたいに、もっと気まずい感じになるよ……」
「……悪い」
「さっき、一夜それ考えてたんだ」
「……似たようなこと考えてた。俺以上に咲人にとって気を引く色があったらどうなるんだろうなって。……異性とかじゃなくて色に対してそう思うのも、大分変な話だけど」
言いながら、一夜は苦笑いを浮かべる。声に出せば馬鹿みたいな話だが、それは、確かに起こり得る問題だと思った。
「確かに俺、人と色のこと同じ目線で見ちゃうことあるし、同性と付き合ってるってまだ時々戸惑うし、隆弘のこと、完全に吹っ切れてないけど」
そっと、咲人が視線は向けないまま、隣に座る一夜の手に自身の手を重ねる。言葉で伝えきれないことを、咲人はよく行動で表していた。
「一夜が好きだよ、俺。一夜の色が好きだって思うのも、それが一夜だから好きなんだと思う」
「……ああ」
「俺、やっぱ一夜にとって頼りない?」
「いや……、違うだろ。……居なくなられたら困るから心配してるんだろ」
「……そっか、ごめん」
「いや、悪い、なんか、余計なこと言って」
「……」
気が抜けたように軽く笑い合うと、どちらが何か言うでもなく、流れのまま唇を重ねる。
少しして離れるも、今度は咲人が身を乗り出して向かい合う形になると、再び同じ行為を繰り返した。
そのまま静かに深いキスに切り替わると、重なっていた指も絡む。室内を満たす夏の環境音に、二人のキスの音が混ざり込んでいた。
一夜が、少しだけ咲人の自分への向き合い方が変わったか、と、初めて感じたのは、春先だった。
一線を超える行為までには及んでいないものの、キスの度合いが変わり始めたのもこの頃で、先にそれを要求してきたのも咲人で、そのことに当時一夜はとても驚いた。
思い返せば、元々は先にキスをしてきたのも告白をしてきたのも咲人の方だったのだが、橘のことがある以上、きっと自分の方が踏み込んでいくべきなのだと、それまで一夜は何も疑わずに思っていた。
だが、蓋を開けてみればそんな結果だった。
それからは、どちらがどうというでもなく、したいようにするような関係がずっと続いている。
「……ん……」
そっと離れた咲人は口元を拭うと、そのまま一夜の肩に顔を埋めた。
「……ごめん、ちょっと、一夜の顔見れない……」
「……何今更そんな動揺してるんだよ」
「一夜に会うの久しぶりだしあんな話した後だし」
「……、」
解らなくはないけど、と、一夜は内心で相槌を打った。
「……変なこと言っていい?」
「まあ……、今日は咲人が何言っても許される日だろ」
「ん……」
言って、咲人は一度言葉を閉ざす。
取り巻く空気と絡んだ手の温度から咲人の緊張が伝わる所為で、一夜は意識的に平静を保ちながら咲人の言葉を待った。
「……こうやって、」
「……ああ」
「一夜の側で、一夜の色を感じてるのが、最近凄く好きで。……そのまま溶けてしまえればいのにって、よく思ってる。前より、そう思うこと多くなった」
「……」
「何言いたいか解る?」
「……解釈が合ってるなら」
「多分、合ってると思う」
「ああ……」
そうして、再びの沈黙が訪れる。
「……それはさ」
先に沈黙を破ったのは一夜だった。
「うん」
「俺自身を求めての話?それとも色の方?」
「……そんなの、両方引っくるめてに決まってんじゃん」
「なら良いんだけど」
一夜の言葉に咲人は小さく息を吐き出すと、ゆっくりと埋めていた顔を上げる。
「言葉選ぶのって難しい。もっと本読んでればよかった」
困った、というよりは、不貞腐れたような表情で言う。
「充分詩的だったと思うけど」
そして苦笑混じりに言う一夜の言葉に、今度は不満気な視線を向けた。
「笑うことないじゃん……!」
「いや、違くてさ、こんな会話咲人相手じゃなきゃ絶対出来ないなと思って」
「……一夜はそういうのやっぱり興味無かった?そういうの求めてたの俺だけ?」
「え……」
聞き返されると思っていなかった一夜は思わずそんな声を上げる。
「そういう訳じゃないけど……、咲人、結構橘のこと気にしてたみたいだし、そういう程度を測り損ねてる部分があったというか」
「……俺、一応そういうの気にしなくていいって訴えてたつもりだったんだけど」
「それに気付けなかったのは悪かったと思うけど。……咲人だってそういう考えがあったならもっと早く言ってくれれば良かったのに。別に拒絶してなかっただろ、俺」
「そんなこと言われたって……、言えるわけないじゃん、只でさえ男同士で戸惑うこと沢山あるのに」
「……それもそうか」
「そう」
「……ごめん」
「や、俺にも原因あったと思うし、いいけど」
「……」
言葉が途切れて、続きの言葉を探すように互いの視線が逸れる。
「……それで、元々今日はどうするつもりだったんだ」
先に打開したのは今度も一夜だった。
「ん……、色々考えたりしてたけど、後はいつもみたいに過ごせればいいや。抑えてるのしんどかったけど、ちゃんと話したらちょっと気が済んだ」
「……そうか。咲人がそれでいいならいいけど」
「うん。……そう言えば一夜、さっきの写メなんかあった?」
「え、ああ……」
一夜は予想外のタイミングで問われて戸惑うも、すぐにどう伝えたものか、と思考を巡らす。
「……あの咲人の初恋の相手、俺も別の場所で見たことあるかもしれないって」
「……マジで?」
やはり引っかかる物は大きいのか、咲人が大きく反応を見せた。
「え、どこで……?」
「……咲人が言ってた通り、色合いが変わってるだろうから絶対じゃないけど……」
「うん」
「俺達が見てた夢の中の、咲人の部屋」
「……」
咲人は一夜の言葉に一瞬目を見開いた後、すぐに視線を下方へ逸した。
「やっぱ気のせいじゃなかったんだ」
「気のせいじゃなかったって?」
「話したか解んないけど、俺があそこでちゃんと見てた景色って、2階までで。部屋に入ってすぐ意識が飛んだ憶えがあるから、自分がいた周りってよく解んないんだけど」
「ああ」
「部屋には入ったから、一瞬だけ見てるんだ、自分の部屋」
「……」
「最初見た時、はっとしたんだよね。すぐに認識できなくなったけど、やっぱりそうだったんだ」
「……悔しい?」
「まー、少しはね。だけど結果的には良かったんだと思う」
「良かった?」
「……それ知ってたら、俺、今こうして無かったのかもしれない」
「……」
咲人の言葉に、一夜は少しだけ、自身の中に良くない類の感情が沸くのを感じる。
「それってやっぱり、あの看板がまた日の目を見たらそっちにいくって事なんじゃないのか……」
「完全にスルーはできないだろうけど……、もう色んなことが変わったから、やっぱり俺は一夜の隣にいると思うよ」
「……そうか」
「ていうか、全力で一夜にあの看板への愛を訴えると思う!」
「……理解できるように精進しとく」
一夜の言葉に笑う咲人に釣られて、一夜も思わず笑い声を漏らす。
そうしながら、一夜は目の前の少年を、不思議な存在だなと実感していた。
ここにいてくれて良かったと、咲人に対して、今まで何度思い至ったか解らない。
そして、出来ればこれからもこうしていたいと――頭の片隅で、願っていた。
***
すっかり暗くなった夜道を、行きを遡るように並んで歩く。
あんなに鳴いていた蝉の声は静かになり、代わりに囁かな虫の声が道端から聴こえている。
結局あれからいつも通り、だらだらと目的もない時間を二人で過ごした。
特別に得るものは何もないかもしれない。が、そうやってただ会話を楽しむだけの時間も、思いつきで浪費する時間も、悪くない……と、一夜はよく感じている。
「あ、そう言えば昼間話せばよかった」
「なんだよ」
突然思い出した様に言った咲人へ、一夜は疑問の声を投げかけた。
「こないだ、隆弘のお父さんに会った」
「……マジか」
「うん、ほんとたまたまだったんだけど」
「それで?」
「話したことって、いままで挨拶くらいしか無かったから。迷ったんだけど、声かけてみた」
「どうだったんだ」
「直人さんの事とか少し話して、あと、隆弘の事、俺は今でも信じてますからって話して……」
「ああ」
「そしたら、なんか、隆弘のお父さんもその辺のことまだ結構気にしてたみたいで」
「……おお?」
「もしかしたら、隆弘の事、何か協力してもらえるかもしれない」
「それって、橘の父親も橘のことは何かの間違いだと思ってた、って事だよな?」
「うん、そう言ってた。だから近いうちに改めてゆっくり話をしようって約束した」
「良かったじゃん。俺も何か出来ることあれば協力するから」
「……会う日決まったら、一夜も来る?」
遠慮気味に咲人が一夜へ問う。
「いや、俺が行ったら気まずいだろ、向こうが。事後報告は聞かせてもらえたら嬉しいけど」
「だよね、うん、報告はする」
「でも、俺が言うのもあれかもしれないけどさ。……そう思ってたなら、橘の家の方こそ積極的に動くべきだったんじゃないのか」
「まー、俺もまさかこういう流れになると思わなくて驚いたんだけど。事件のことで離婚したっていうのもあるだろうし、後、隆弘のお父さんって 結構誰かが背中押さないと動かない人っていうか」
「……そうなのか?」
「隆弘の家って、母親がめちゃくちゃ神経質な人で、父親の方は逆に事なかれ主義な所があって、そういうの見てるのが疲れるって隆弘よく言ってた。 母親の方はもうこっちにいないみたいだし、やっぱ難しかったんじゃないかなって思う」
「そうか……」
自分の家に来た時、その家族はどんなだっただろうかと、一夜は自分の記憶を探る。そうして、それすら曖昧にしか思い出せない自分の記憶に気が滅入った。
「……一夜、また自分が思い出せればーとか考えてるっしょ」
「え……、まあ、やっぱその事は気になるし」
「何度も言うけど!一夜は生き残ったこと自体が一番の功績だからいてくれればいいの!……気を使ってるとかじゃなくてさ、俺、それって本当に凄く大事なことだと思うから」
「ああ……」
「俺も、いい方向にもってけるように頑張る」
そんな会話をした所で、前方にバス停が見え始める。計算通りなら、バス停に着けば殆ど待たずにバスが到着する時間の筈だった。
「あ、あともう一個!」
少しだけ焦った様子で咲人が続ける。
「ん?」
「週末にこっちで花火大会があるんだけど、それ一緒に行きたい!」
「そうなのか。予定は空いてるからそのつもりでいる」
「よっしゃ!じゃーそれで!詳しいことはまた後日ね」
そうしてバス停へ辿り着くと、ほぼ同じくして遠方からバスのライトが姿を現した。
一夜はそれを確認すると、咲人へ向き直り、暫しその顔を黙視する。
「え、何」
一夜の行動の意図を掴み損ねた咲人が、戸惑った様子で一夜に言う。
「いや、咲人がいてくれて良かったと思ってさ」
「それは……、お互い様じゃん」
「……そうだな」
一夜がそう返したところでバスは到着し、その扉が開く。客が下車し終えると、代わりに一夜が「じゃあ」、と軽い挨拶で乗り込んだ。
咲人の笑顔に見送られて、その地を離れる。
「……」
何となく心地よさを感じながら、一夜は流れる夜の景色に視線を向けた。
そうして、ふと屋上で咲人に助けられた日のことを思い出す。
「自分じゃ駄目なのか」と訴えていた咲人の言葉を思い出す度、そんなことはない、という想いを伝えたくなった。
一夜は携帯を開いて、おやすみ、と咲人へメールを送る。
そう言えばあの日も、こんな流れでこんなやりとりをしたな、と、再び窓の外へ視線を戻した。
後数時間で、今日という日も終わりを告げる。
間もなくして返ったメールに一日の余韻を感じながら、一夜はただ、今ある景色を見つめていた。
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2013.0821
メリー・コンバージョン
周りには木々が生い茂り、灯りも殆どない夜の薄暗い道に、二人分の足音と呼吸の息遣いだけが響いていた。
こうして長い階段を上り始めてから、どの位が経っただろうか。ずっと動き続けていたおかげで寒い冬場でも体は温かかったが、同時に足は疲れ、腿の辺りが悲鳴を上げ始めていた。
一夜は遂に歩みを止めると両手を膝につき、少し先を行っていた咲人へ「ちょっとたんま」と、肩で息をしながら切れ切れの声をかけた。
「あはは、一旦休む?」
一夜とは逆に軽快な足取りで振り返ると、咲人は明るく言った。
「悪、い……、少しだけ、頼む」
「まー急ぐ旅でもないしね!そんなにきつかった?」
「いや、多分俺が運動不足なんだと思う……」
言うと一夜は階段に腰を下ろし、ふう、と呼吸を落ち着けるように大きく息を吐いた。それは冷えた空気中に白く姿を変え、分散してすぐに消える。
そのまま空を仰げば、星の浮かぶ夜空が目に入った。自分の住む場所からとは違う景色に、一夜は暫し視線を置く。
少し体を鍛えたほうがいいだろうか、とぼんやり休憩していれば、すぐ隣に戻ってきた咲人がしゃがみこんだのが解った。
12月24日。俗に言うクリスマスイブの日。
以前から咲人が度々話していた、一緒に夜景を見に行こう、という話を実現すべく、この日一夜は咲人と目的地へ向かっていた。
なんでも、咲人には昔から夜景を見るのに気に入っている場所があるらしいのだが、その場所は咲人の家の近くだったため、住む場所の違う一夜は約束時に説明を聞いても全く場所が解らなかった。
そうして、取り敢えず場所は当日案内するから、という咲人の言葉に着いてきて見れば、いつの間にか軽い体力検査を受けることとなっていたのだ。
「俺、結構歩くって言わなかったっけ?」
「それは言ってた。でもこんな上り階段を通るって事は一言も言ってなかった」
「あはは、説明大雑把すぎた!ごめんごめん」
あまり悪びれた様子はなく、どこまでも笑い混じりに咲人は言う。一夜もなんだかんだでその事を本気で非難する気はなく、咲人らしいけど、と同じように笑みを返した。
「でも、もうあとちょいだよ。そろそろ動けそう?」
「ああ、サンキュ。……行くか」
一夜は言うと、再び階段の最上段を目指して歩き出した。咲人もそれに続く。
遠くに視線を移せば咲人の言うとおり、少し前までは階段が伸びるばかりだった道の先に、開けた広い空間が見え始めていた。
「よっし、どっちが先に着くか競争!」
「は?!」
悠長に残りの距離を測っていた一夜などお構いなしに、咲人が一方的に宣言して階段を駆け上がりはじめる。それを見て、一夜も追うように階段を駆けだした。
休憩したとは言え、足が疲れていることに変わりはない。結果は見えきっている勝負だった。
だが、こんな遊んだやりとりや、二人でいることの空気が心地よくて、咲人の背を追う一夜の口元は楽しげに緩んでいた。
苦しいはずの呼吸すら、笑い声に変わる。そんな時間に身を任せているうちに、あと少しだった目的地は目前まで迫っていた。
「俺の勝ちー!」
相変わらず息も殆ど切れないまま、咲人が軽々と最後の一段を登りきった。
「さ……きと、今のは、ずるいって」
遅れて、またもや息も切らした一夜が少し後から咲人の隣へ立つ。一夜は呼吸こそ苦しかったが、気分は決して悪いものではなかった。
ずるいとは言いつつ、もとより勝ち負けなんてどうでもよかったのだ。
「一夜が体力なさすぎなんだって!でもおかげでラスト早かったっしょ?」
「まあな」
返事をして、一夜は今日二度目の大きな呼吸を吐き出した。そうして、広がった目前の景色に目をやる。
どうやら、ここは公園らしかった。あまり広くはないその空間には、ベンチが二台と飲料の自動販売機が一台、そして街灯が一つ、ベンチのそばで周辺を照らしていた。
高台に有るらしいこの場所は突き当たりが木の柵になっており、今の時間広がるのはビルや民家など様々な色の明かりが輝く夜景だった。広く見渡せるため、眺めもいい。
暗闇に散らばった光の粒の煌きは、とても綺麗だった。
だが何故だろうか、一夜の目に入ったそれは、咲人が絶賛するのには少し、物足りないようにも感じた。
「ここからでも綺麗なんだけどねー。一夜には俺の秘密基地へご案内します」
「……秘密基地?」
やはりここは違うのか、と思いつつ、秘密基地、という単語が気になり聞き返す。
「そそ。こっちこっち」
ちょいちょい、と咲人が手招きの後どこかへ歩き出す。一夜は脳内に疑問符を浮かべながら、後に続いた。
この辺りはもう、殆どが草木に囲まれている。細く暗い並木道を抜けた先にあるのは恐らく住宅地で、咲人が向かう先には特別夜景を見られる場所は無いように思えた。
「こっちの方って……普通に住宅地帯に出るんじゃないのか?」
ついて歩きながらも不思議に思い、一夜は問う。
「まーまー」
咲人は黙ってついて来いと言わんばかりだ。
そうして急に立ち止まったかと思うと、咲人は携帯を取り出した。なにか確認でもするんだろうか、と一夜が見守っていると、ライトを点けて薄暗い雑木林を照らし出す。
それを見て、一夜はまさか、と思い至った。
「……この中に入る系?」
「入る系」
咲人は飄々と答えた直後に、植木を超え暗い並木の中へと足を踏み入れた。がさりと音を立てた場所をよく見れば、そこの植木だけ少し形が歪んでいる。目印であろうそれは、もう何度も足を踏み入れた形跡らしかった。
植木の奥は木々が茂っているが、人が通れないほどじゃなさそうだった。とは言え、立ち入るように出来ているわけでもないだろう。
一夜は不安を覚えつつも、咲人は何度も来ているんだし、と己に言い聞かせて、同じように歪んだ植木を超えた。
「暗いから足元とか気をつけてね」
言いながら、咲人は一人さくさくと進んでいく。時折小さな枝に邪魔されながら、一夜も慣れない足取りで進んだ。
本当に、今日こうして来るまではこんなにも身体能力を試されるとは思わなかった。これはこれで、楽しくはあるのだけれど。
小枝や草を踏む音で今日がクリスマスであることも忘れそうになった頃、少し先の木々の間から、薄らと光が漏れているのが目に入った。
それはだんだんと近くなり、大きな幹の木を超えた所で、視界は一気に広がった。
同時に飛び込んだ光景に、一夜は足を止めて視線を奪われる。
「ここんとこ、柵が壊れてるから、前出過ぎないでね」
「ああ……」
一夜は返事をしながらも、視線は目の前に広がる景色へ釘付けだった。
先ほどの場所から然程遠くはないはずなのに、開ける角度が変わっただけで、見える光はすっかり姿を変えていた。
白や青、赤、点滅する光。多種多様な光が、きらきらと眼前に散らばっている。クリスマスということもあり、きっと普段より光の種類も多いのだろう。
もう少し遠くを覗き込みたくなって踏み出すも、ついさっき咲人が言った言葉が脳裏を過ぎって、即座に足を止める。
試しに視線を下へ向ければ、危険なのが一目で解る高さが目に飛び込んだ。理解すると口直しをするように、再び夜景へ視線を戻した。
天の川が空ではなく地上に存在していたならば、きっとこんな感じなのだろう。
改めてそんなことを思いつつ、普段なかなか見ることのない光景へ、一夜は素直に感動を覚えていた。
「ここって、あっちの公園より暗いじゃん?多分そのせいもあると思うんだけど、こっちから見たほうが断然綺麗なんだよね」
「ああ……すごいな」
本当に不思議だ。一夜はただただ実感しながら、あんな場所までここから見えるのか、と遠景を楽しんでいた。
「どう?階段登った甲斐くらいはあったっしょ?」
「そうだな」
夜風が吹いて、辺りの木々がざわざわと葉音を鳴らす。12月の風はそれなりに冷たく、立っていた一夜の体を小さく震わせた。
「自販機でなんか買ってくればよかったね」
「だな、帰りはなにか買っていくか」
「ん」
咲人の短い返事で、会話は途切れる。お互い視線は目前の景色を捉えたまま、時間だけが流れた。
そうしながら、一夜はいつかの時、咲人が「夜景を見ると飛び込みたくなる」と言っていたのを思い出した。あの時は軽く流してしまったが、今なら、それも少し解るような気がした。
その意味はきっと咲人が言う意味には殆ど近づけていないのだろうが、その衝動くらいは、きっと今、理解できている。
思っていたより、ずっと魅惑的な衝動だった。
「ここ、本当はこの先も誰にも言わないつもりだった」
「ん……?」
急に口を開いた咲人の言葉に、一夜は視線と共に耳を傾ける。
「さっき言った、秘密基地。本当に俺だけの秘密の場所にしとこうって思ってた」
「え……良かったのか」
「うん、一夜にはこの景色見せたかったし」
「そっか。……ありがとな、ほんと、見れて良かった」
「俺も、一夜と見れて良かった」
言うと、咲人は満面の笑みを見せて笑う。釣られるように、一夜も照れたような笑みを返した。
「初めて来たのって中学の時だったんだけど、今まではさ、ここって、一人になりたい時に来る場所だったんだよね」
「そうなのか?」
「うん。すっごい面倒な悩みにぶち当たった時とか、学校で何かあった時とか、ここでぼーっと景色見てると、ちょっと楽になったし」
咲人の言葉に、一夜は再び眼前の景色に目を向ける。
よく、広い海を見ていると悩みがちっぽけに思える、というが、同じような物なのだろう。
「隆弘が自殺したあとも、よくここでぼーっとしてた。ここって基本人目につかないし、本当に自分だけの空間ができた気がしてさ」
「ああ……それは、分かる気がする」
目の前の景色はとても広々としているのに、立っている場所は木々に囲まれて、酷く閉鎖的だ。まるで、密室の窓から外の景色を望んでいるようにも感じる。
「でも、一夜が来たからもうそういう場所じゃ無くなったかな。今度ここに来るときは、今日のこと思い出すと思う」
「それは、思い出すといい影響になるってことだよな?」
「うん、一夜が受験で忙しくて会えない時期とか、ここに来たら頑張れるかも」
「そうか……」
咲人のその言葉は、一夜にとって嬉しいものだった。自分ばかりが咲人に支えられていたと思っていたが、自分も咲人に何かを与えられたとするなら、それはとても嬉しい。
改めて、一夜は目の前の少年をとても愛おしく思うのを感じた。最初こそ戸惑ったが、今となってはもう、自分の中で当たり前の感情になってしまっている。
静かにそんな会話を交わしていれば、今度は少し強めの風が木々の間を吹き抜けた。刺すような冷たさに、一夜は反射的に身を縮こませる。
「……そろそろ行こっか」
同じように身を縮めた咲人が切り出した。一夜も特に異論はなく、夜景を背に二人で公園へと歩き出した。
先ほど話した通り、公園の自販機でホットドリンクを購入し、帰る前に一度ベンチで休憩する。
一夜が時刻を確認すると、21時を回ろうとしている所だった。
「今日は時間気にしなくていいからいいねー」
ホットジンジャーのペットボトルを手で包み込みながら、咲人が楽しげに言う。
休みに入ったこともあり、今日は一夜もこのまま咲人の家に泊まり込む予定だった。
「でも一夜、受験勉強とか平気?結構上のとこ行くんでしょ?」
一転して、今度は伺うように言う。
「まあ、俺としても今日はいい息抜きになってるし」
「ならいいけど」
「逆に言えば、今日くらい会っておかないとまた暫く会えなくなりそうだしな」
「だよねー」
はあ、と咲人がベンチの背へ深くもたれかかり、項垂れる。
「越えられない年齢の壁が……」
「同い年だったとしても、咲人だって受験だろ」
「一緒に受験勉強できたじゃん」
「なら、帰ったら勉強会でもするか?」
「やだ」
冗談へ返った即答の言葉に、一夜は呆れたように小さく笑った。咲人のこういう部分に、不思議と一夜は安心感にも似た心地よさを覚える。
「……帰ったらかー……」
咲人は急に落ち込んだ様子でぽつりと言うと、ペットボトルの熱で暖かくなった手を、空いていた一夜の片手へ重ねた。
「なんだよ」
手のひらの体温にどきりとしつつ、一夜は訝しげに重ねられた手に自身の指を絡める。
それが合図だったかのように、咲人はゆっくりと体重を一夜の方へずらし、そのまま肩へ寄りかかった。
「明日まで一夜といられるのは嬉しけどさ、普通に親いるから恋人っぽいこと何にもできないよ」
「それは、仕方ないだろ」
嗜めるように言う。
「せっかく一緒にいんのに?」
「いや……、でも家にいるって言っても、俺たちは咲人の部屋だろ?監視されてるわけじゃないし、今みたいに寄りかかったりしてるくらいは大丈夫だろ」
「無理。俺自分の部屋でこの距離だったら歯止め効かなくなりそうだし」
「なんだそれ……」
「それにこの間も親に恋人でもできたのかって聞かれたし、無理、絶対バレる」
「マジか」
それは確かに、と、一夜も考えを改める。親というのは妙に鋭いもので、変なことでも敏感に悟るのだというのは一夜も自身の記憶からよく解っていた。
「無理、とにかく無理」
訴えるように繰り返した刹那、咲人の体は一夜へ乗り出し、その唇は一夜の唇へ重なった。意表をつかれた一夜は身動きをする暇もなく、されるがままになる。重なった咲人の唇はわずかに湿っていた。
一夜が驚いて動けずにいると、咲人はすぐに唇を離し、絡めていた手も解いた。突然の咲人の行動に相変わらず困惑していれば、咲人は徐に立ち上がる。
そして一夜の正面に移動しベンチに片膝をつくと、ゆっくりと、一夜の首元に腕を回した。咲人を見れば、普段はころころと表情を変える大きめの瞳が、何かを言いたげに真っ直ぐと一夜を見つめていた。
一夜はようやくはっとして、咲人、と名前を呼ぼうと思い至る。だが一夜がそうするより先に咲人が動き、気づけば一夜は咲人に優しく抱きつかれていた。
「一夜」
切なげに名前を呼ぶのと同時に、ぐ、っと咲人の腕に力が入る。咲人が置いたままにしていたペットボトルが倒れ、残っていた中身が小さく音を立てた。
一夜は自身の肩に顔をうずめる咲人の息遣いを感じながら、ゆっくりとその体に腕を回した。同じ男にしては小柄な体から、脈打つ鼓動が伝わってくる。
そのまま暫く抱き合う体温と鼓動の心地よさに身を任せると、小さく咲人の名前を呼んだ。その声に顔を上げた咲人へ、今度は一夜が自分から唇を寄せる。
そのまま、一夜は短いキスを繰り返した。咲人も答えるようにそれに合わせる。そうしている内にさらに深いキスへの欲求が沸き上がるが、今日に至っては留めておくべきな気がして、その分を埋めるようにひたすら唇で戯れ合った。
熱を伴うその行為に、一夜は冬の夜の寒さなど忘れて、甘い感触に思考が没落していくのを感じた。
「っ……は……、ちや、むり……、止まんなく、なる」
そうして、先に静止したのは咲人だった。その言葉に、一夜もゆっくりと顔を離す。目に入った咲人は、暗い中でも瞳が僅かに潤んでいるのが解った。
咲人は紅潮しきった顔を再び一夜の肩へ顔を埋めると、ただ訴えるような、言葉にならない声を発した。一夜は咲人の言いたいことをなんとなく悟るも、どうすることもできず黙って抱きしめることで答える。
これ以上触れられないことがもどかしいのは一夜だって同じだ。だが、こればかりはどうしようとも言えない。
せめて自分が大学生だったら良かったのに、と、一夜は心の中で叶わぬ理想を思った。無事進学できたら同時に家を出る予定だ。プライベートも多少は今より自由が利くようになる。
「俺、無事大学受かったら来年は家出るつもりだからさ、そしたらいつでも来ていいし」
「ん」
嗜めるような一夜の言葉に、咲人が短く答える。
「前も言った通り、同じとこ来るなら勉強手伝うし、それなら来年は会う時間も今までより増えると思うぞ」
今だけの辛抱だ、という意図を含んで、一夜は続ける。実際、一夜は今日までそうやって自分へ言い聞かせてきた。
「ん……、なんか、一夜がちゃんと来年の話ししてると安心する」
だが咲人が返した言葉は意図とは反してそんなものだった。
「なんでだよ、俺、まだいつか死にそう?」
そんな咲人に対して苦笑交じりに答える。そう思われても仕方がない事はして来たが、今はもう、そんな考えは一夜の中に毛頭ない。
「死にそうっていうか……、多分俺、単純に来年も一夜と一緒にいたいんだと思う」
言うと、咲人は再びそっと触れるだけのキスをする。
すぐに顔を上げると、そのまま体ごと離れベンチを降りた。
「遅くなってきたし、帰る?」
そうして咲人は伺うような表情で聞いた。
「そうだな」
一夜が答えると、咲人はすっかり冷えてしまったホットジンジャーのペットボトルを回収した。
一夜も立ち上がると、肩を並べてあの長い階段へと向かった。
***
「一昨年のクリスマスとかはさ、仮に来年恋人と過ごしてたとしても、隣にいるのは女の子だろうなーって思ってた」
ゆっくりと階段を下りながら、咲人が静かに口を開いた。
今年は咲人と過ごす二年目のクリスマスだ。もう一年は過ぎたのだし、一昨年の話ならなんとなく今更な気もしながら、一夜は咲人の話へ興じた。
「まあ、普通はそうだろうな」
「ん……、実を言うと俺、本当の本当に仮になんだけど、一夜とおんなじ色を感じる『女の人』がいたらどうするんだろうって考えたことがあって」
「……ああ」
仮に、という部分を強調してはいるが、その話題は一夜へ動揺を与えるものに違いなかった。いくら体を重ねて互いに想いを吐露し合おうが、自分たちの感情が生物的にも常識的にも一般的でないことに変わりはない。
特に咲人は一夜に感じる「色」の部分に強く惹かれている。もしそれが同性の自分ではなく異性だったなら、咲人もそのほうがいいのではないかと、考えなくはなかった。
なんとなく浮かない気分でひたすらに続く下り階段を眺めながら、一夜は咲人の言葉を待った。
「想像してみたんだけど」
「ああ」
「なんか、全然しっくりこなかった」
「……しっくりこなかった?」
どういう意味だろう、と、一夜は咲人を見ながら疑問を投げかける。
「んーと、当たり前って言えば当たり前なんだけど、一夜はやっぱり一夜しかいないわけで、何か一つ変わっちゃったらそれはもう全然違う物っていうか」
うまく言えない、と、眉を顰めて説明しづらそうに咲人が唸る。一夜はそんな咲人を見守りながら、黙って続きの言葉を待った。
「つまり、一夜以外の人とか今は考えられないって話!なんか自分でも何が言いたいのかよく解らなくなった」
言い終えた咲人は照れくさそうに困った表情を浮かべる。一夜は改めて告白をされたことだけは理解して、咲人の言葉に小さな笑い声を漏らした。
「あーもう、また笑うし」
非難気な視線が一夜へ向けられる。
「悪い、なんか安心したんだよ」
「ん……、なら多分言いたいこと伝わったと思う」
その言葉で、ふと一夜は過去に自分が咲人へ問いかけた言葉を思い出した。
今年の、咲人の誕生日だったろうか。八月の、夏休みの時だった。
その日一夜は、咲人から一風変わった"自身の初恋"の話を聞いた。そしてもしも今、"初恋の相手"と同じような存在が現れたら咲人はどうするのかと、不安から衝動的に問いかけた。
その時も、咲人は今はもう関係ないし、自分は一夜が好きなんだ、というような事を言っていた。
一夜もその答えに納得し、その話をした直後こそぎこちない空気が流れたが、落ち着いてからは、その話が再浮上することもなかった。
なのになぜ今またそんな話をするのだろうかと、一夜は不思議に思った。
「……もしかして、前に俺が言ったことずっと気にしてたのか?」
「え?あー、誕生日の時の?」
「ああ」
「そういうわけじゃないけど、なんで?」
「いや、いきなりこんな話するから」
「あー……、考えたきっかけは、確かにあの時の話が関係してるけど、気にしてたってほどじゃないよ」
取り繕うように咲人は言う。多少気になっていたようではあったが、深く掘り返す気はなさそうだっため、一夜もそれ以上気にするのはやめることにした。
多分、なんとなく言い出したことだったのだろう。咲人は普段も時たま、そういう話題の振り方をすることがあった。
「……ならいいけど。俺もあの時は余計なこと聞いたなって思ったからさ」
「一夜のそれってある意味嫉妬でしょ?」
「まあ……」
ずばり言われて口ごもる。
「なんか一夜のそういうのってすごいレアな感じするし、一夜も気にすることないって」
「レアか……?」
咲人の言葉に淡い疑問を抱くも、確かにいままであまり嫉妬した記憶はないな、と一人納得した。
「……俺も嫉妬されてるのかな」
「ん?」
自身の思考に気を取られていたせいで咲人の言葉が上手く聞き取れず、一夜は聞き返す。
「いやいや。あ、そういえば隆弘のお父さん、今度裁判所行って来るって言ってたよ」
「ん、それって橘のことか?」
「そそ。いい弁護士さんと知り合ったらしくて、お母さんの方にも連絡とって、結構本格的に動くみたい」
「へえ……」
咲人は、一夜の家族を奪った事件の加害者とされている橘隆弘の父親と今年の夏に偶然会ってから、度々会っては話をしているようだった。
一夜はその都度、経過だけは報告を聞いている。
その一環で少し前に、警察の不祥事に関しての話が出た、という事は聞いたが、遂に確信に迫ってきたのだろうか。
咲人も橘の父親も、橘隆弘が本当に犯人だとは微塵も思っていない。一夜は橘家の人間に気を遣わせるからという理由で直接関わる事を避けているが、思いは咲人たちと同じだった。
「一夜にも、今度は会ってもらう必要あるかも」
「ああ、向こうが必要だっていうなら協力するけど」
「うん。……来年のクリスマスは、本当になんのしがらみもなく過ごせたらいいね」
吐き出した言葉とは裏腹に、咲人の口調は軽い。だが、こういう口調の裏に切実な思いがあるのを、一夜はよく知っていた。
「そうだな」
だから一夜も、同じ調子で答えた。
今はまだ色々なものに囚われて思い通りとは行かないが、来年は、全てが上手くいっていればいい。
着実に前には進んでいるのだ。咲人だっていてくれる。ならきっと心配ないだろうと、一夜は確信するように階段を踏みしめる。
こんな考えを抱けるようになったのさえ、咲人の影響だ。与えられているものの大きさを、一夜は事あるごとに実感した。
「今日はありがとね、一夜」
そんなタイミングで咲人に礼を言われて、一夜は思わず咲人を見る。
「ん、どうかした?」
「いや、俺も咲人にお礼言おうかと思ってたから」
「あはは、息ばっちりじゃん」
一夜の言葉に、咲人は嬉しげに笑った。
一夜も同じように笑ったが、同時に自分も昔はこんなやりとりに否定的だったな、と思い出し、都合のいい自分の感情に呆れた。
「よし、じゃー一夜、帰りはグリコやって帰ろう!」
「え?」
「はい、じゃーんけーんぽいっ!一夜の負け!お先!」
「ちょっ……!」
意表をつかれて動けずにいた一夜へ一方的な宣言をすると、咲人は「ぱーいーなーつーぷーる」と間延びした掛け声を共に階段を下りていく。唐突な咲人の行動に翻弄されながらも、一夜は気を取り直して次のジャンケンへ備えた。
数の分段差を下り終えた咲人が振り返り、笑顔を見せながら右腕を振り上げる。一夜もそれに答えるように、でもほんの少しだけ、不満を訴えるようにむっとした表情を浮かべながら、同じく右腕を振り上げた。
「じゃーんけーんぽい!……俺の勝ちー!ぐーりー」
「一段飛ばすな!」
クリスマスイブの夜は更けていく。
二人だけの時間は、まだ暫く終わりそうにはなかった。
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2015.12.18
" Birthday1007 "
「いっちゃん!今度の日曜!」
生徒たちの会話が飛び交う昼休み。
なんの前触れもなく言い出した多田野の言葉に、一夜は想定済みと言わんばかりに「何時」と利口な返事をした。
長年付き合ってきた目の前の人物の誕生日を忘れるほど、一夜は薄情でもない。
「いっちゃん何時なら都合いいのさ?」
「別に何時でも。そのつもりでいたし」
「言ってくれるねー、早くも感動で泣きそう」
「……で、何時なんだよ」
「ぶっちゃけ俺も何時でもいいんだよね。適当にいっちゃんがいい時に俺んち来てよ」
「ん、了解」
「あ、特になにも持ってこないくていいからね」
「……ああ」
と、一夜は建前の返事をしておく。ここで否定をして、目の前の青年がはいそうですかと言わないことは、一夜もよく知っている。
そして恐らく、その返事が建前だということも、多田野はよく解っている。
10月7日。
曖昧な口約束の末、一夜はこれから向かう、と一通のメールを入れた。
大体いつもと同じ時刻。二人の約束なんていつもこんなものだった。そして、それが可能なだけの長い付き合いを、これまで過ごしてきていた。
玄関を抜ける頃には『了解、気をつけてねー』と端的なメールが入る。
確認を終え、差し入れを片手に一夜はいつの間にか恋人になっていた元親友の家へと向かった。
一夜は見慣れた笑顔に出迎えられると、多田野と共に当人の部屋へ向かう。普段は多田野の母親にも歓迎的な挨拶をされる一夜だが、今日は他に誰もいないらしく、家の中は静かだった。
部屋へ入り込めば互いに決まった場所へ落ち着く。
一夜の自室に比べると、多田野の部屋はずっと物が多い。来るたびに、見慣れないものが増えていたりもした。
その癖部屋の中はいつもやたら片付いているのだから、多田野だよな、と、整理された棚を見ながら一夜はぼんやり考えていた。
だが、すぐに持ってきた差し入れの存在を思い出し、差し入れだと多田野へ差し出す。プレゼントではなく、差し入れ。中身だってなんてことはない、飲み物とちょっとした菓子の類だ。
多田野は快く受け取ると、迷うことなくそれらを配分した。
「てことで、誕生日おめでとう」
改まった様子で一夜が切り出す。
「どうも。いやはや今年の誕生日は幸せだねー」
笑顔を浮かべながら軽いノリで多田野が言う。だが、その言葉の中にはなにか含まれた意味があるのを、一夜は器用にも感じ取った。
今年の誕生日は。わざわざ、そんな言い方をする理由。
「……去年は言えなかったな、おめでとう」
「まあ、俺も誕生日がどうとかって気分じゃなかったですけど」
「ごめん」
去年の同日。一夜は、病院のベッドの上だった。
家族が殺され、自殺未遂をし、昏睡状態で病院にいた。親友の誕生日など知る由もなく、祝うどころか、心配をかけた。
馬鹿なことをしたと、一夜はいまだに思う。ずっと陰ながら自分と寄り添ってくれていた存在を、自分は一度裏切ったのだ、と。
「過ぎたことどうこう言っても仕方ないしね。それに、今はこうしてなんにも後ろ目たいことなくいっちゃんを独占できるわけですし?」
「……でもさ」
「でももなにもないって。というか、いっちゃんが俺の気持ち受け入れてくれた時点で全部どうでも良くなったよ、割と本気で」
「……ああ」
「いっちゃんさ、俺がいままでどれだけ距離感維持するの苦労してたか解る?」
困ったような笑顔を浮かべながら、多田野が何か言いたそうにしている一夜へ言った。
「言葉の一つ一つが心苦しいわ後ろめたいわで大変だったぜ?普通なら気にしないようなことも気になるしさ」
「……」
「恋愛ニートないっちゃんには解らないと思いますけどね?」
「ほっとけよ。というか俺は興味がなかっただけだっつの」
からかう調子の言葉に、むっとした様子で一夜が言う。告白の言葉を受けるまで、一夜はそんな可能性を微塵も考えていなかった。 ずっと、仲のいい親友だと思っていた相手が、自分に対して恋愛感情を向けていたなどと。
「……あのさ、気になっててもなんか気恥ずかしくて聞けなかったんだけど」
「なにさ」
「多田野はさ、いつ頃から俺のことそういう目で見てたんだ?」
「そうだね、あんまり明確じゃないけど」
言って、多田野は記憶を探るように思案する。
「ちゃんと自覚したのは中三の夏位だったかなー?俺にとっていっちゃんってそういう存在なんだなって」
それはほんの些細なきっかけだった。
友人には抱かないであろう感情を自覚した時、多田野の中で認識が変わった。
だが多田野にとってそれは意外なことでもなんでもなく、寧ろ納得のいく感情で、戸惑いよりも、絡んでいた紐が解けたような感覚を覚える物だった。
「その割にずっといつもどおりだったよな、お前」
「そう見えてたなら努力の甲斐あったってもんですわ。自覚して暫くは結構焦ってたんだけどね」
「気がつかなかった」
「それはほら、いっちゃん鈍いから」
「悪かったな」
「いや、その鈍さに救われると同時に翻弄されて俺も何とも言えないね、これは」
そこまで言って、多田野は改めて仕切り直すように表情を微笑へ変えた。
「……でもやっぱりさ。こうやって気兼ねなく自分の気持ち言えるのは嬉しいよ」
「ちゃんと答えられてるか解らないけどな、俺」
「こうやって特別何にも言わなくても予定合わせてくれるし、十分だって」
「それは、前だってこんなもんだったろ」
「確かにいっちゃんが擦り寄ってくることあんまりないけど、それもまあいっちゃんだから不満はないし」
「……」
不満はない、という言葉がひっかかる。
「腑に落ちない?」
多田野の質問に、一夜は返答を渋った。多田野がどういう人間かよく知っているからこそ、その言葉に納得ができなかった。
まだ本心を引きずり出してない。嘘は言っていないのだろうが、それは本音ではなく、類似品の言葉だ。
そして、いつまで経ってもそうさせてしまう自分に、一夜は多少のもどかしさを覚えていた。
多田野の気持ちも言葉も決して嫌ではない。キスに対する不快感もないし、傍にいれは安心する。
だが、一方的な差異を感じるのもまた事実だった。多田野が言ったとおり、一夜から何かを求めるということは少ない。
それこそ、『名目が変わっただけの今までどおりの関係』だった。
決して、「その気がない」訳ではなかった。だが、色々が欲求に変わる前に、一夜はいつも与えられる分で満足してしまうのだ。
「……そうだねー……」
黙り込んだ一夜を見て、多田野は独りごちるように言うと視線を反らした。
そして思案するような様子を見せた後、横目で一夜をちらりとみやった。
なんだろう、と、一夜は多田野を見る。
「ちょっといいですかね」
「え? ……っ」
予想外の多田野の行動に、一夜は疑問を投げかける間もなく短い声を上げた。
一夜はいいとも悪いとも言う前に、多田野に床へ押し倒されていた。流れの統一性が取れず、思考に混乱を招く。
「いきなりなんだよ」
「俺は割といっちゃんとこういうことしたいなーと思ってるんだけど、いっちゃんはどうなのかなーって」
「……、」
見下ろされる形で問われ、一夜はその質問内容に思わず視線を逸らす。鼓動が早まるのを感じた。
多田野の表情は普段通りにも見えたが、何かを試すような真意も含まれている気がする。
一夜は頭で何か返事をしなければ、と思うも、どう答えればいいのか解らず言葉に詰まっていた。
考えたことがない訳ではない。ただ、それを伝えた時明確になるであろう変化に、まだ少し不安を覚えた。
「三年でクラス別れちゃってさ、俺がどれだけ寂しい思いしてるか解ってないですよね一夜君は」
「……それは、」
「いっちゃんはどうなのさ?授業中に俺のこと考えたりする?」
「……」
あれ、と、一夜は感じた。
冗談を言っているようなのに、そこに余裕は感じられない。
「突然自殺はかったとか聞かされてさ……、あの時初めていっちゃんのことが物凄く遠く感じた。何を責めればいいのかも解んないし、空いた席見てイライラするし、でも心配だし不安だし」
気になって一夜が逸らしていた視線を戻すも、多田野は顔を伏せていてその表情ははっきりと伺えなかった。
あの日の事を、多田野は今でもよく覚えている。
突如舞い込んだ、想像もしていなかった知らせ。ほんの数時間前まで共にいた大切な人が生死を彷徨っている現実に、頭の中が一色に染まった。 何かがおかしいと薄々解っていたくせに、そんな結果を導き出してしまった自分が悔しくて、 情けなくて仕方がなかった。
会いたくても会えない日々。一夜にとっての自分という存在が嫌でも脳裏をちらつき、クラスメイトからはお前が大丈夫かよ、と散々言われた。
ただ、無事に戻ってきてくれることだけを祈った。短いようで、酷く長く思えた期間。こんなにも愛おしい存在だったのだと、再確認までさせられてしまった。
「……散々もっともらしいこと言ってるけどさ。今だって、いっちゃんの気持ち測りそこねてるよ、俺。側にいないと不安なのに、いたらいたで不安になる。一方的でも満足してるようで、本当はもっと求めてくれたらいいのにって思ってる」
「俺、やっぱり一方的だと思わせてるんだな」
ようやく聞きたかった言葉を聞けたと言わんばかりに、一夜が食いついて問いかけた。
「解ってた筈なんだけどね、いっちゃん凄く受身な人間だし。……自制と一緒に箍も外れちゃいましわ」
言いながら、多田野はようやく苦笑いを一夜へ見せた。
「……それは、悪い。俺さ、いまいち解らないんだ、その、あまりにも今までどおり過ぎて」
「そうだね、俺達今までもこんな感じだったしね」
「でも今、一方的だって言われて反論したくなった」
「言い分は?」
「……俺が恋愛慣れしてないのはお前がよく知ってるだろ。恋愛ニートとか言った癖に」
「つまりどうしていいのか解らないわけだ?」
「大抵お前がリードしてくれるだろ、だからそれに甘えてるっていうかさ。……でも、不安を覚える原因を作ったのは、俺だよな、ごめん」
「まあ、俺もちゃんといっちゃんの気持ち信じろって話だし、お互い様」
「ん、サンキュ」
そうして、二人で軽く笑いあった。
「……で?」
笑い声が止むと、一夜が促すように短く問う。
「で、って?」
「……俺、押し倒されてるんだけど」
「ですね」
とぼけた調子で多田野が相槌を打つ。
「そういう流れだと思うんだけど」
「……今キスすると歯止効かないかもしれないんですけど、OK?」
伺うような多田野の言葉に一夜は一瞬だけ言葉に詰まった様子を見せるも、別にいい、と答える。
「そういう反応見せられちゃうと、迂闊なことできないよね」
笑い混じりに困ったように言って、多田野はそっと一夜へ唇を重ねた。
静かな沈黙の後キスを終えると、そのまま多田野は身を起こした一夜を抱きしめる。
「いっちゃん男のくせに変に抱き心地いい気がする」
「……そうなのか?」
「ていうか絶対年上キラーだぜ?狡いなー」
「……お前……」
この状況で何を言っているんだ、と思いつつ、一夜は呆れた視線を多田野へ向けた。
「……本当に、ね。幸せな誕生日だ、今日は」
改まった様子で言うその声色からは安堵が伺えた。つられるように、一夜も安堵を覚える。
「なら、よかったよ、俺も」
笑みを浮かべて言いながら、一夜は腕を回し返した。
実感のこもった多田野の言葉に、本当に大切に思ってくれているのだと、一夜はひしひしと感じた。
自分が起こした行動でどれだけの心労をかけたのか、きっとまだ計り知れない。
そんなことをわざわざ訴えるような人間でもない。だからこそ、その想いは余すことなく汲み取りたかった。
自分にとっても、かけがえのない存在だからこそ。
「……その」
「んー?」
「ごめんな、お前のこと、ちゃんと見てなくて」
「それはもういいって」
「解ってるんだけどさ……、もう一度、ちゃんと言っておきたくて」
腕の中の存在が、この世に誕生した日だからこそ。ここにいてくれてありがとうと、一夜は伝える。
「じゃあ俺は、こうして今見ていてくれてありがとうって言っておきますかね」
そう言うと、多田野は気が済んだようによし、と一夜を開放する。
「いつもどおり適当にやりますか」
多田野の言葉に、一夜はそうだな、と軽い返事をした。
こうして、馴染んだ時間は再開していく。
二人きりの部屋の中には、何ら変わりのない、いつも通りの談笑が響き渡っていた。
2012.1007
carry-over X'mas
「こんばんは。それじゃあ帰りましょうか」
待ち合わせ場所だった大きなツリーの前。顔を合わせて早々、多田野が笑顔で発した言葉に、俺はやっぱりか、と内心で落ち込んだ。
予想はしていた。でもまさか、とも思っていた。
「なんで解るんだよ。怖いぞ」
「そりゃあいっちゃん、すっごい神妙な顔つきで歩いてくるんだもん。それだけでも気になるのに、その顔色見たらねえ」
呆れるようにジト目を向けてくる。そうは言うが、自分ではそこまででは無いと思っていたのだ。
「……そんなに悪い?」
「いっちゃんの親なら気が付くレベル」
「そういやお前はそのレベルに昇格してるんだったな……」
「ははは、あの先輩に負けない程度には俺もいっちゃんのこと見てましたからねー」
軽い調子でちょっとだけ物騒なことを言いながら、多田野は今俺が歩いてきた道を歩き出した。
聞くまでもない。このまま俺の住む家まで遡るのだ。俺もバレてしまっては異論を唱えることはできず、"あの先輩"という言葉に遠い日の事が脳裏によぎりながら、多田野に続いて歩き出した。
12月25日、クリスマス。
夕方から多田野と二人で過ごす約束をしていたこの日、俺は、軽い熱を出していた。
***
早々にお世話になっている叔母さんの家まで逆戻りし、自室として宛てがわれている部屋まで多田野と共に戻ると、足を踏み入れてすぐ、ベッドに横になるように促された。
「いや、そこまで酷くはないんだけど」
「風邪はひき初めが肝心って言いますし」
言いながら、多田野はエアコンと小型加湿器のスイッチを入れる。特別怒っている様子はないが、とにかく今は暖をとらせたいようだった。
帰る最中に、熱はまだそれ程高くないこと、咳なども殆ど無いことは伝えた。だからこそ俺も、夕方から出かけるくらいなら大丈夫だと、待ち合わせへ向かったのだ。
多田野が気がつく可能性は当然考えていた。実際気づかれて、こうして帰ってくるハメにもなった。だが解っていたということは、俺にもそれなりに向かった理由があったことになる。
心配をかけたのは認めるが、先にその辺りを話しては駄目だろうか。俺としては早々に横になりたいほど、体の負担を感じてもいない。
それにここで言うとおりにしてしまえば、やっぱり無理をしていたのだ、と思われかねない。もしも本当に無理をする必要があったなら、俺は諦めて正直に連絡を入れていただろう。
でも俺はそうしなかったのだ。その理由を、多田野はどう考えているんだろう。気を使った、とでも思っているんだろうか。
「……解った、ちょっと過保護に対応を焦りすぎたのは認める。いっちゃんのお話を聞きたいので、一先ず休んでもらえると嬉しいです」
一向に動く気配がない俺に観念したのか、小さく息を吐いたあと多田野は言った。
自分の意図が伝わったため、俺も多田野の言い分を受け入れることにする。終わってみれば駄々を捏ねるようなやり方になってしまった。
「言う通りベッドには入るけど、寝ると話しにくいから入るだけだぞ」
「お願いします」
「……悪い、折角の日に体調崩して」
「それは仕方ないから良いんだけどね。待ち合わせに来たのはちょっと驚いたかな、いっちゃんなら俺がどう考えるか解るでしょ?」
「まあ、気づかれたらこうなるだろうなっていうのは解ってた」
会話をしながら上着や靴下を脱ぎ、一先ずベッドへ入り込む。追うように、多田野がベッドの淵へ腰を下ろした。
「で、自分を顧みず待ち合わせに来た理由は?理由によってはお兄さん怒りますんで」
そんなことを言う多田野の口調は冗談気だった。だが、恐らくその言葉には少なからず本心も混ざっているのだろう。
「いや……」
俺はベッドの中で体育座りをし、膝に腕を立てて頬杖を付きながら、理由を思い浮かべると視線を逸らした。
口に出そうとすれば、我ながら恥ずかしい理由ではある。だが心配をかけた以上誤魔化すのは無責任だし、照れくさい反面伝えたい理由でもあった。
「なに、本当に怒られそうな理由だったりする?」
中々言葉が出ないためか、訝しげに聞いてくる。
「そうじゃなくて」
これが付き合いだす前なら、「そんなに俺に会いたかったの?」とでも笑って言いそうなのに、付き合い始めてから、その類の冗談はめっきり減ってしまった。
多分、俺が殆どを肯定するようになってしまったからなんだろうけど、今はちょっとだけ言って欲しい気分だ。
逆に多田野の方こそ一番単純な理由には思い至らないんだろうか、と思いつつ、俺も観念して、理由を告げるため多田野を見た。
「その、最初のクリスマスだろ」
「へ?」
多田野にしては珍しい、間の抜けた声が返った。その目も見開いて俺を見ている。
……やっぱり馬鹿みたいな理由だった。
その反応に恥ずかしさが込み上げて、思わず視線を壁の方へ逸らす。顔が熱い。これは多分熱のせいではないだろう。
「……最初、って、付き合いだしてからってこと?」
「そう。だから、体調崩してグダグダになるとか嫌だったんだよ」
「……」
こんな理由を、多田野のやつは一体どんな顔で聞いているんだろう。気になるも、壁から視線を動かすことができなかった。
そしてそんな恥ずかしさを誤魔化すために、白い壁紙の模様を辿りながら、更に言い訳のような理由を探してしまう。
「普通に会いたかったのもあるし、楽しみだったし」
「……」
「多田野のことだから、多分色々計画立ててたんだろうなと思ったし、俺も色々考えてたし」
「……」
「今日のこと話し合った時、お前がすごく楽しそうだったのも思い出して」
「……」
「思い出したら、実際顔見たくなるし」
「……」
「あとは、なんていうか、……多分、多田野は去年とかも恋人として俺と過ごしたかったのかなとか、そういうのも考えて」
「ストップ」
「あ……、悪い」
流石に最後のは自惚れだったろうかと、はっとして咄嗟に多田野へ謝る。
だが、謝罪と共に思わず見た多田野は俺から顔を背け、額の辺りを覆った左手は、気分を害しているというより、落ち着こうとしているように見えた。
「……多田野?」
「それ以上いじらしいこと言われると、多分俺、理性飛びます」
そうして吐き出されたその声は、どこか必死だった。
「今日はいっちゃんの体調がよろしくない以上、手を出すわけにはいかんので」
「そんなこと言われても、これ以外に理由ないんだけど」
「うん、ごめんなさい、俺が悪かったです。意味もなく泣きそう」
そう言って、多田野は仕切り直すように大きく息を吐いた。そのまま力が抜けたように俯く。
困惑したような多田野の反応に、俺も少々戸惑いを覚えていた。
理性云々も理由の一つではあるのだろうけど、多分、多田野のこの様子はそれだけが原因ではない。
いままでも、多田野は普段は大抵何事にも余裕気なのに、俺が多田野への素直な想いを話すと、よく扱い方が解らないものに直面したような動揺を見せることがあった。
それに対して俺は、見慣れない反応を見られることが楽しくもあったが、困らせてるんだろうかと、気になることもあった。
「ほら、俺、いっちゃんに愛を投げるのは慣れてるんだけど、いっちゃんから向けられるのはまだあんまり耐性ないからさ」
俺が戸惑っているのに気がついたのか、困ったような笑みを見せながら取り繕うように言った。それについては前に本人も言っていたように、片思いの期間が長すぎて一方的なものが癖になってしまっているのだろうし、俺の自殺を止められなかった後ろめたさから受け入れ難いと言っていたのも、理解はできている。
だからといって、俺だって何も言えないのは困る。俺は寧ろ、自身が犯してしまった過ちの分も含めて、待たせてしまった想いを返したいのだ。
それもあって、今日は多少の風邪くらいなら、多田野と過ごす"特別な時間"を優先したかった。一緒にいるのは時間が許せばいつでもできるが、クリスマスという名目は、そうそうあるものじゃない。
とは言え、多田野にそんな癖を植え付けたのも、今日風邪を患わったのも、俺の自業自得だ。どちらにおいても、今は諦めるしかない。
「……あんまり俺がさっきみたいなこと言うと、調子狂う?」
困らせてしまうなら本末転倒だ。俺の質問に、多田野ははっとした表情を見せる。
「いや、そういうわけじゃないって。ただ、いっちゃんのそういう部分って、絶対付き合った人間しか解らないと思うし、そういう意外性に翻弄されるといいますか」
「それは別に疲れることじゃないんだよな?」
「寧ろ嬉しいことというか、役得というか?……なにいっちゃん、俺今なにか試されてる?」
「え?いや、どうするのが一番いいんだろうと思って」
「そんなの、隣にいてくれるのが一番いいですけど」
「……、」
思わず言葉が止まる。
「一つ一つ大事にしてくれるのも、俺の気持ち汲んでくれるのもすごく嬉しいけど、この先も俺の側にいてくれるなら、それが一番いいかな」
そう言って、今度は優しげな笑みを向けてきた。それだけで、俺は何も言えなくなる。
なんだかんだで、結局上手なのは多田野の方なのだ。
「だから今後こういうことがあった場合は、自分の体調優先してね」
「ああ。……ごめん、ほんと、心配かけて悪かった」
「俺としてはこんなクリスマスもいいと思うし、連絡くれればどのみち看病には来てたしさ」
「ああ……」
「まあそれなりにやりたいことは色々ありましたけど?それだって、来年もいっちゃんがいてくれるなら持ち越しでいいと思うし」
「……そうだよな」
「あと俺のあれはさ、裏を返せばいっちゃんのこと好きすぎて起こる発作みたいなもんなので、スルーしてくれていいし」
「まあ、承知だけしておく」
「うん。てことで今日はここでゆっくり過ごしましょうや。家の人、いつ帰ってくるの?」
静まり返った家の中を思ってか、多田野が問う。
「叔母さんは22時すぎ位だけど、小父さんが今日は20時位だったと思う」
「そっか、じゃあその位まではお邪魔してましょうかね。……そんなに酷くないんでしょ?」
それは少しだけ悪戯っぽい聞き方だった。部屋に帰った直後こそ、早々に寝させようとしてたのに。
だがそんな細かい不満を伝えることはせず、だから言っただろ、と、俺もその言葉に便乗した。
「とは言え病人には変わりないからな。カードゲームでもやります?」
「俺はそれでも」
「じゃ、取ってきますね」
俺の部屋なのに、多田野は我が物顔ですぐにカードが入っている机の引き出しへ向かう。
この部屋になってからまだ数える程度しか来ていなかったと思うのだけど、なんでもう把握してるんだろう。
試しに黙って様子を見ていれば、難なく引き出しからウノを見つけ出した多田野が颯爽と戻って来た。
「なんで解るんだよ。怖いぞ」
「ん?いやあ、当てずっぽうで前の部屋の時と同じ引き出し開けたらあったから。いっちゃんも何も言わないし」
「……ああ、成程」
そう言われれば納得する。相変わらず勘がいい。
部屋こそ変わったが、引き出しの中などは殆ど以前のままだ。中学の頃から度々部屋に来ていた多田野は、以前の部屋ならもう大体場所を把握していた。
そう考えれば本当に長い付き合いだし、それだけ、相手の中に自分がいた事になる。
「……なんかほんと、ありがとな」
「カード取ってきただけですけど」
「そうじゃなくて。長い間俺のこと好きでいてくれたんだなって」
「……だからさ」
多田野はゲームの準備を進めていた手を止めて、はあ、と短く息を吐く。
「今日はそういうの勘弁してくださいって。風邪引きだしキスするのも我慢してるんだからさ」
「え、俺は別に」
「仮に感染ったら気にするでしょ、いっちゃんが」
大丈夫だけど、と言う言葉を遮るように、多田野が言った。
多田野の言う通り、いざ後日多田野が風邪をひいていたら、自分のせいだと俺は気にするだろう。
配慮の差に、俺はもうどれだけ多田野に想いを伝えようが、絶対に遅れた分を埋めきることなんて出来ないんじゃないか、と思った。
もしもそれすら見越した「隣にいてくれればいい」と言う言葉だったなら、俺はこの先も必死に生きることでしか答えられない。
別に、死にたいわけじゃないけれど。
「……」
……ああ、そうか。
それはいままで、多田野が散々俺に訴えていたことだ。とても単純なことだ。生きていてくれという、それだけだ。
それを、俺は少し難しく考えすぎていたのかもしれない。
敵わないな、と思う。
「……お前はいちいち格好よすぎて悔しい」
「次そういうこと言ったら実家に帰らせていただきますので」
「普通に家に帰るって言えよ」
「恋人感増すかなと思って」
「なんだそれ」
他愛無い会話を交わして笑い合うと、多田野が配当を終えたカードの束を渡してくる。
「いっちゃんが今日体調崩したのがさ」
「ん?」
いざゲームを始めよう、という所で、多田野が静かに切り出した。視線は俺を見ず、開いたカードを見ている。
「心労から来たものだったりしたんじゃないかなーと、思ったわけですよ」
「心労……?」
「無駄に思い出させることじゃないかもしれないけど、いっちゃんちのクリスマスって毎年賑やかだったでしょ」
「ああ……」
去年の25日のことが思い出される。何しろ小夜と母さんは賑やかなことが好きだったから、クリスマスなんて日は特に気合が入っていた。
中学の頃は多田野も一度混ざったことがあったから、その時の記憶があるのだろう。
「気持ちの整理がつくにはまだ全然早いからさ。顔色に気づいたなんて言ったけど、気づけたのはちょっとだけ可能性考えてたからなんだよね」
「俺は別に、小夜みたいにそういうので露骨に体調崩さないけど」
「いっちゃんは崩さないんじゃなくて、自覚がないんでしょうよ」
非難気な視線を向けられる。反論しにくい意見だった。
「まあ、全く考えなかったって言えば嘘になるけど、今日はお前と」
会うのが楽しみだったし、と言いかけて言葉を止める。先ほど、今日はもう素直なことを言うなと言われてしまった。
「……そういうのじゃなくて、ほんとにただの季節的なやつだから」
改て言い直す。
「うん、ならいいんですけどね」
「ああ」
やっぱり少しだけ不便なものを感じつつ、頷く。
そうして、今度こそベッドの上でカードゲームを開始した。
***
「そろそろおうちの方が帰ってくる頃ですかね」
携帯で時間を確認しながら多田野が切り出す。俺も確認すると、確かにそろそろ小父さんが帰ってくる時間だった。
「そうだな、お開きか」
「じゃ、片付けて帰りますわ」
あれから色んな卓上ゲームを転々としていたため、ベッドの周辺にはすっかり遊んだ名残が散らばっていた。
「片付けくらいはやっておくけど」
「いいって、病人は休んでてくださいな」
「……悪い」
充分動けるのに片付けさせることへ引け目は感じつつ、大人しく従う。
手持ち無沙汰でなんとなく窓の外へ目をやると、暗い景色の中雪が降り始めているのに気がついた。
「多田野、雪降ってる」
「ん?……ああ、本当だ」
俺の言葉に、多田野も動きを止めて窓の外へ視線を向けると答える。
「傘借りてく?」
「いんや、このくらいなら傘なしで帰るよ」
大した距離じゃないしね、と続ける。
雪はまばらなもので、大降りというわけではなかった。ここから多田野の家まで15分もかからない。この程度なら無くても困りはしないだろう。
「好きな人と雪を眺めるクリスマスっていいですよねー」
そして冗談気な口調で言うと、片付けを再開した。
「その言葉が理解できるとは思ってなかったな、俺も」
「あはは、いっちゃんほんと絶食だったもんね」
そう言って、大方片付け終えた多田野が改めて俺のそばへ戻ってきた。
「じゃあ、ちゃんとご飯食べて薬飲んで、ゆっくり休んでね」
「ああ。……今日は本当ごめん、ありがとな」
「来年の埋め合わせ、期待してますんで」
笑顔で言う。
「……お手柔らかに頼む」
俺の返答に笑い声を一つ零して、多田野は一人早々と帰っていった。
体調のせいもあってか余計に物寂しさを感じながら、すっかり静かになった部屋でベッドに寝転ぶ。
……家を出る時より、ちょっとだけ熱が上がったような気がする。
多田野の言うとおり、ご飯食べて薬飲んでさっさと寝よう。
「……」
蛍光灯の光を見ながら、ぼんやりと先ほどのことを思い出す。
見事に、普通に遊ぶだけの数時間だった。
俺が体調を崩していたから、というのは勿論あるだろうが、頑なな距離の置き方を見ると、それだけあいつも余裕がなかったんだろうな、とも、思う。
つくづく申し訳ないことをしてしまった。……来年は気を付けよう。
一人胸に誓い、食事を取るため一階へ向かう。
色々を次回へと持ち越した一年目のクリスマスは、ゆっくりと、更けていった。
—————-
2015.12.21
アンチリビドー
例えば当たり前のように帰路を共にしていた親友が、「今日は用事がある」と訳有り顔で言い出したのへ"はいそうですか"と言えるほど、俺は男同士の距離感で親友と向き合えてはいない。
それでも笑顔で引き下がるのは、相手の尊重でも我慢強さでもなんでもなくて、単に俺の中の罪悪感がそうさせているんだろう。
『親友』であるいっちゃんが、急に放課後"何か"へ向かい出すようになってから、かれこれ一年近く経っている。
残念なことに何故か察しのいい俺は、その理由に薄々検討が付きながらも、本人に確認することまではできないまま、ここまで来てしまっていた。
それは学年が上がりクラスが別れて、そもそも共にいる時間が減ったせいもあるだろう。いっちゃん自身が、特に話そうとする素振りがないせいもあると思う。
けれどそれすら言い訳で、結局は、俺自身が事実を知りたくないだけなのだ。
「箱を開けるまで猫の生死は解らない」と言ったのはどこの学者だったか。俺はただ、可能性の海に浸っていたいのだ。
『恋人』になることが無理だとしても、まだ『その気持ち』までは誰にも向けられていないという、独りよがりな可能性に。
自覚したのは五年前。青い空から突然の雨が降り注いだ夏の日だった。
特別何があったわけじゃない。その日その時まで、確かに彼は『親友』だった。
逃げ込んだ軒下で、隣にいたその横顔を何気なく見ていた俺へ、彼はいつもの、照れたような、苦笑交じりの笑顔を見せた。
その瞬間、彼は『親友』から『片思いの相手』へ変わった。
本当に何でもないきっかけだった。今思えば日々の積み重ねから導き出された結果なのだろうが、その時は不思議でたまらなかった。
元々、引越しの多い家庭事情で一人の友人と長く親密になることも少なくて、そういう意味でも彼は俺にとって初めての親友だった。
それこそ初めは『一夜』という名前に物珍しさを感じた程度で、性格にしたって、あんまり会ったことのないタイプだなと感じるくらいだったのに。
あの夏の日の通り雨が、俺の中に恋心を植え付けていった。
唐突に湧き上がってしまったのだ。キスをしたい、と。
あの時の記憶は、今でも鮮明に脳裏へ焼き付いている。
それからは、親友に嘘をつき続けるだけの日々だった。
今まで通りを振舞って、伝えたい言葉は軽い冗談へと昇華した。
いっちゃんはいい意味でも悪い意味でも無防備だった。純粋で、素直だった。俺の言葉を疑うことは一切しなかった。
それに救われて、同時に苦しめられた。
酷い時には部屋に二人きりでいることさえ辛い時もあったのに、多分いっちゃんはそんなこと微塵も感じ取ってはいなかっただろう。
それだって俺が器用だったわけじゃなく、いっちゃんが鈍感だっただけなのだ。
……鈍感すぎて時折感じるじれったさは、罪じゃないと思いたい。
けれどもしいっちゃんがすぐに悟っていたならば、俺はもうとっくにいっちゃんのそばにはいなかったのかもしれない。
それこそ同じ高校にすら来てなくて、あの事件だってテレビのニュースで見るだけだったのかもれない。
それなら欲を犠牲にしてでも、そばにいられる今の方がまだマシだ。
そうやってこれまでもずっと、自分を言い聞かせてきた。
だからこれからも、それでいいはずなのに。
「……」
バスを降り、一人夕暮れに染まる街中へ歩み出す。隣町に買い物の用事があった。
いっちゃんと帰りが別になるのが当たり前になってから、一人で帰ることも増えた。帰る相手がいない訳じゃなく、一人を選ぶこと自体が増えた。
その心境は実のところ自分でもよく解らない。柄にもなく黄昏たいのかもしれないし、空いてしまった枠を安易に埋めたくないのかもしれない。
夕方の駅前は相変わらず人が多かった。スーツ姿の人もいれば、同じように学業を終えた学生もいる。
放課後デートでも嗜んでいるのか、制服姿の男女もちらほら見受けられた。それを見て、脳裏へ数時間前に挨拶を交わした『親友』の顔がよぎる。
(やっぱり急に放課後用事ができるとか、付き合い悪くなるとか、こっちの事情ですよねー……)
思わず溜息にも似た息が漏れる。一つ気になるとすれば、「用事がある」と言い出し始めたタイミングが、病院から退院して間もなくだったってことだけど。
変な話、あの事件の前にいっちゃんにそういう色恋話が無かったことは断言できる。変化があったのは入院を挟んでからなのだ。
だからこそ、『恋人ができた』という判断に踏み切れないのもある。俺は別にいっちゃんの全ては知らないし、四六時中一緒にいる訳でもないから、知らないところで知り合った相手がいるのかもしれないけど。
だとしたらどんな人なんだろうか。そんなことすらも今はもどかしい。
中学からの数年間、いっちゃんの浮ついた話は殆ど聞いたことがない。だから好みのタイプも全然知らない。なんとなく、おとなしい子が好きなんじゃないかって気はしてるけど。
何歳くらいの人なんだろう。俺の勝手な予想では年下だと踏んでる。いっちゃん結構庇護欲あるし。悪い意味じゃなくて。お人よしというか。
どういう経緯でその人のこと好きになったんだろう。あまりにも今までそういう気配が無かったから、想像がつかない。少なからず、一時の寂しさで流されたわけじゃないだろう。
なんにしてもいっちゃんが選ぶんだから悪い子じゃないんだろう。いっちゃんが幸せになるのはそれはそれで嬉しいし。
もとより自覚したその日から叶わないことが決まった感情だった。いっちゃんが男の俺を好きになるなんてある筈無いことだし――
(あれ……?)
自分とは反対側の街路、横断歩道の近く。見慣れた背格好が視界に入った。
同じ制服に身を包んだ男子生徒。今更、その姿を見間違えるわけもない。
『親友』は、恐らく大分年上であろう、背の高い男性と言葉を交わしていた。
しばしその光景に釘付けになる。
二人は談笑を交わすだけで、一向にその場から動かなかった。偶然会ったのかもしれないが、それよりは別れの挨拶をしているように見えた。
話し相手の長身の男性へ目を向ける。失礼にもあまり明るい印象は受けないが、時折黒髪の合間から見えるいっちゃんへ向ける表情は優しかった。
やがて二人は互いに軽く手を挙げて別れた。男性の背中を、『親友』は見えなくなるまで見送っていた。
(……放課後の用事ってこういうことだったんだ)
一人になった『親友』へ、声をかける事はできなかった。
全てを悟った。
足が動かなかった。
『親友』は俺に気が付くことなく、帰る為かバス停の方角へ歩いて行く。
今度は俺がその姿を見送った。
先ほど彼が長身の男性へ見せていた愛おしげな表情が、頭を離れなかった。
あの二人の表情を見て、「ただの知り合い」だとは思えなかった。自分がその可能性を知っているからこそ、思えなかった。
『親友』の――いっちゃんのあんな表情、見たことがなかった。
「っと、すみません」
「!」
通行人にぶつかられた衝撃で我に帰った。
謝り返そうとするも、ぶつかった女性は早々に遠ざかっていく。
消えない動揺を抱えたまま、俺も再び目的の店へと歩みだした。
先ほどの光景が、表情が、何度も頭の中へ蘇る。
仮にあの二人の関係が俺の勘違いだったとしても、少なからずいっちゃんは何らかの感情を相手へ抱いてる。皮肉にも、ずっといっちゃんを見てきた俺だから解る。
叶うならば俺が見たかった表情だ。俺に向けて欲しかった表情だ。
相手は年上だった。大学生くらいだろうか。あんな人とどこで知り合ったんだろう。別にどこでもいいけど。
いっちゃんはあの人のどこに惹かれたんだろう。モテそうだし優しそうではあった。それとも年上の包容力ってやつだろうか。
もし二人が本当に付き合ってるんだとしたらいつからだったんだろう。流石にいっちゃんが帰りを別にしだした時からじゃないだろうし。
二人の関係はどこまで進んでるんだろう。あの人は、いっちゃんのどこまでを知ってるんだろう。
きっと俺じゃ見られないような表情も知っていて、仕草や、触れた時の声だって、
「アウト」
咄嗟に小さく声に出して、自分の思考回路を自制する。
何考えてるんだ。最悪だ。
「……」
罪のはずなんだ。
じゃあなんで、俺じゃ駄目だった?
『男だから』って言い聞かせてきたのに、悪いことだと思ってきたのに、なんでいっちゃんが惚れた相手は男なんだ?
一番分厚かったはずの性別の壁が最初からなかったなら、俺にだって対等な可能性があったはずなのに。
いっそ踏み込んでれば良かった? 『親友』なんて肩書きに、逃げなければ良かった?
「……、」
違う。そういう問題じゃないのはよく解ってる。
いっちゃんにとって傍にいたいのはあの人だった。それだけだ。
ああやばいなんか涙腺にきそう。さっさと買い物済ませて帰ろう。
(でも少し時間開けないとどっかでいっちゃんと鉢合うかもな)
なかなか冷静になれない頭の中をなんとか落ち着けながら、目的のフロアを目指す。
この日、俺は初めていっちゃんを避けることを意識した。
買った商品が目的のものと微妙に違うことに気がついたのは、家に帰り夜も更けてからのことだった。
***
「いっちゃんてさ、結構前から放課後何かあるみたいだけど」
切り出したのは翌日の昼休みだった。クラスが分かれても、相変わらず俺はいっちゃんの教室にお邪魔して昼食を共にしていた。
いっちゃんもそれが当たり前だと思ってくれてるのか、異論が飛んできたことは今の所ない。
お互い食事を終えたタイミングで持ち出した俺の言葉に、いっちゃんは珍しく少しだけ身構える様子を見せた。多分、この先も俺はこの件について見て見ぬふりをすると思ってたんだろう。
その話題を話し出すのにあまり神経を使わなかったのは、お陰様の寝不足で、思考回路が鈍っていたせいだ。
ちなみに朝は見事な寝坊をキメた。顔合わせづらかったからある意味助かったんだけど。
「放課後用事があったら……なんだよ」
警戒気味の様子で、いっちゃんは俺の言葉を促した。
「恋人でも出来ました?」
「……!」
ほんの僅かな否定への期待も空しく、いっちゃんは露骨に目を見開いていた。
いっちゃんの反応は相変わらず解りやすい。いつも素直で大変よろしい。
「実はお兄さん、昨日の放課後一夜くんが年上のお兄さんと一緒にいるところを目撃しまして」
「あ……」
笑顔で言ってみれば、すぐに小さな声を漏らす。この反応を見てしまえばもう確信以外何もない。
「あの人、彼女のお兄さんか誰か? まさかあの人が恋人ってわけじゃないでしょ?」
それでもわざと遠まわしの言葉を選んだのは、嘘が下手ないっちゃんへ送る、せめてもの逃げ道だ。
「……」
けれどいっちゃんは視線を落としたまま言葉を閉ざした。嘘でもそうだって言ってしまえばいいのに。
まあ、俺はいっちゃんのそういうところが好きなんですけどね。
「……悪い」
そして挙句には謝罪の言葉が飛び出してしまう。
「なんで謝るのさ」
「いや……、お前になら言っても大丈夫だと思ってたんだけど、結局隠してたから」
「ってことは何、まさか本当にあの人がいっちゃんの恋人なの?」
解ってたけど。
いっちゃんは視線を逸らしたまま、ぎこちなく、小さく頷いた。
解ってたけど。チリチリと胸が痛む。
「へえ、それはびっくりだ」
その痛みを消し去るように、できるだけ明るく務めて言う。
「悪い、こんな形で知らせることになって」
「いいって。それなら言えなくて当たり前でしょ」
「でもなんか、多田野のこと信用してなかったみたいだろ」
「裏を返せば、話して俺がいっちゃんのこと軽蔑するのが嫌だったことでしょ? ある意味大事にされてたってことですし?」
こういう切り返しに慣れてしまったのはいつからだったろう。
「まあ……そうだな」
その気遣いも今は少しつらい。
「なら俺は気にしないって。寧ろごめん、デリカシーのない質問して」
「いや……」
「ていうかいつから? あとあんな年上の人といつ知り合ったの?」
「ああ……、藤堂さんっていうんだけど。元々は、橘って苗字で」
「ああ」
合点がいった。例の事件の繋がりだったのか。
そういえば去年の今頃、いっちゃんが小説の話だとか嘘を吐いて、俺に事件の親族と親しくすることがおかしいかと聞いてきたことがあった。
……あの時からだったんだ。
それにあの頃、弟みたいな相手にキスがどうとかも聞いてきてたような。なかなか衝撃的な質問だったから記憶に残ってる。
……なるほど。
「色々あってさ。去年から、付き合ってる」
少しだけ照れくさそうにして、いっちゃんはゆっくりと告げた。
その表情に思わず心臓が跳ねる。見慣れない様子を可愛いと感じてしまうのは惚れた男の性だろう。
「で? お付き合いはどこまで?」
「は?!」
誤魔化すように軽い調子で踏み込んだ質問をしてみれば、今度は露骨な反応が飛んできた。
「さっきデリカシーを謝ったのはなんだったんだよ」
「いやいやほら、年頃の男の子ですから」
この場合八割くらいは個人的な興味ですけど。
「いや……それにしても聞きたいか? 男同士の話だぞ?」
「まあそれはそれで。多感な年代ですし」
「……」
何か言いたげな、呆れ混じりの視線が向けられる。多分この視線は、藤堂さんとやらには向けられないんじゃないだろうか。
なんとなく優越感を覚える自分の小者臭がひどい。
「……卒業するまでは何もしないって言われてるから」
「……」
間が空いたかと思えば意外にも正直に答えられて、逆に動揺する。
「俺は良いって言ってるんだけど。やっぱ世間体とかも気にしてるみたいで」
その発言は俺にとって少し刺激が強いです。
というか、あれだけ色恋沙汰に無頓着そうだったのに、いざ恋人ができるとそうなるとは。
心なしかそう言ういっちゃんの表情も不満げに見える。俺ならそんな表情はさせないのに。
……なんて、思っちゃいけないけど。
「大事にされてるんでしょ、大人の余裕ってわけだ」
「それはそれでなんか……悔しいというか」
「悔しい?」
「たまに思うんだよ、藤堂にとって俺って保護対象というか……どうしても被害者なのかなって」
「……」
真剣な言葉だった。自分の中に複雑な感情が沸き上がるのをひしひしと感じる。
けれどそれを押し殺して、口元を緩めてみせた。
「そういうわけじゃないと思うよ。どうしても簡単な状況じゃないでしょ、男同士で事件の加害者と被害者って」
「ああ……」
「俺にはやっぱ大事にされてるんだなーとしか思えないけどね。それにわかるよ、学生のうちに妙な経験させない方がいいって考え。レッテルって消えないし、受験とかも見越してるんじゃない?」
「……」
「制約付ける方も辛いと思うけどねー? 恋人に手を出せないって」
「……そうか……」
「そうでしょ。俺は藤堂さんとやらも色々我慢して言ってると思いますよ?」
結構主観の入った意見になってしまったけど。
いっちゃんにこんなこと言わせる以上、そうであってくれないと俺が困る。
「……そっか。なんかサンキュな」
一転して、いっちゃんは笑みを向けてみせた。
「ん?」
「いや、こういうの相談できる相手いなかったからさ。多田野がいてくれてよかった」
「……」
やばい。
言葉が出てこない。
「なんだよ、俺変なこと言った?」
「あーいや! ごめん、ちょっと動揺してました」
ちゃんといつも通りの表情は作れてるだろうか。
「え、なんで」
「そう来ると思わなくて」
「じゃあどう言えばよかったんだよ」
「いや、今のでいいです。そう言って貰えて光栄です」
昨日と今日だけで一人の人にどれだけ翻弄されているんだか。
駄目だ。どうしたってこの気持ちにケリをつけられそうにない。
俺はいっちゃんが好きだ。だからこれからも、せめて『親友』として側にいたい。
「というか、お前こそどうなんだよ」
「え? なにが?」
「前もよく告白とかされてただろ。俺が知らない間に彼女が出来てたりしないのかよ」
ああほら。自分の事になると相変わらずの鈍感だ。
「いやー、それが」
わざと口調を軽くしてみせる。
「実はちょっと前まで片思いしてたんだけどさ。フラれちゃいまして」
「え……」
いっちゃんの表情があからさまに気まずそうなものになった。だと思ったから軽い調子で言ったのに。
「まあ相手に好きな人がいるんじゃしょうがないしねー。最初から半ば諦めてたし、そんなにダメージはないですわ」
「ああ……、その……なんか……悪い、色々」
「いっちゃんが謝ることは何もないって。寧ろお兄さんはいっちゃんがちゃんと心の拠り所を見つけてて安心しました」
「なんだよそれ」
「え」
急に低い声が返って驚く。
「それじゃ俺が、多田野のことどうでもよかったみたいだろ」
「別にそういうつもりで言ってないって」
「確かに、事件のことで藤堂に支えてもらったことは多いけど……、さっきも言った通りお前だっていてくれて助かったし」
「……」
「だから、その……言えよ、なんでも。気休めくらいなら付き合えると思うし……」
いっちゃんがこういうことを上手く言葉にできないのもよく知っている。
本当に。
「うん、その言葉で十分っすわ」
俺は目の前の『親友』が、どうしたって愛しくて大切なのだ。
***
例えば当たり前のように帰路を共にしていた親友が、「今日は用事がある」と訳有り顔で言い出したのに"はいそうですか"と言えるほど、俺は男同士の距離感で『親友』と向き合えてはいない。
だけど幸いにも、友人として一番近くにいることは今でも許されている。
きっとこの先も伝えることはなく、俺たちはそれぞれ大人になっていく。
いつか笑い話にできればいい。
少なくとも今俺は、そう思っている。
"secret"
熱に浮かされてふわりとした意識の中で、遠い記憶を思い出していた。
辺りには青い光が点々と空間を飾り、見知らぬ少年とその中を駆け回る。
笑っていた。
息が苦しいことも気にならない程、楽しかった。
幻想的な、夢のような空間。
暫くその空間に酔いしれるも、直ぐにそれは本当に夢なのだ、と思い至る。
……終わってしまう。
止まる足音と共に笑い声も途絶え、静寂が訪れる。
目の前の少年は不思議そうな表情でこちらを見る。
あの日と同じような表情で。
……終わってしまう。
だから、その背を押した。
何もない暗闇の中へ。
そうすれば、この時間は止まるような気がしたから。
この夢の中に、彼を閉じ込められるような気がしたから。
だが、すぐに気がつく。
一人きりだと。
先程まで光り輝いていた青い光も、幻想的な空間も何も無い。
ただの、真っ暗闇。
その中にたった一人佇んで、後悔する。
急いで後を追いかけようとも、彼が落ちたはずの暗闇はどこにもない。
たった一人、取り残される。
やがてその事実は重く伸し掛り、混乱を招いた。
……誰か、
「……」
ぼんやりと目を覚ますと、夕刻の色に染まった天井が目に入った。
ぐわん、と嫌な感覚が体を走る。
咳きを一つ零してゆっくりと起き上がった。
熱と寒気と、今見た夢のせいもあってか、気持ちが悪い。
「……起きたの?」
と、すぐそばから聞き慣れた兄の声が聞こえ、波立っていた感情が少しだけ落ち着きを取り戻す。
「うん」
「調子は」
「あんまり変わらない」
言って再び咳をすると、直人が飲料の入ったコップを差し出す。
礼を言って受け取り、一口だけ飲み下した。
「今日は、このままこっちにいる?」
返したコップを受取りながら直人が問う。
「いる。……あっちにいたら治るものも治らない」
俺の言葉に直人が苦笑いを浮かべる。
だが浮かべるだけで、批難の言葉も拒絶の言葉も返さなかった。
あの家に安息なんてないこと、直人だって良く知っているはずだ。
だからこうして家を出て自活していること位、俺だって解っている。
……直人は、甘やかしすぎな位優しいと思う。
それに甘んじてしまっている以上俺は何も言えないけれど。
仮にその意図を伝えたとしても相手に無関心なだけだ、と答えるだけだろうし、今更言うことでも無い。
だが、直人が居てくれた事は間違いなく自分にとって救いだった。
彼の存在を除けば、だが。
「……ねえ、俺、寝てる時変なこととか言ってなかった?」
「変なこと?」
「寝言とか」
「別に何も。気分は悪そうだったけど」
「嘘ついてないよね」
「嘘つく理由がない」
「聞いちゃまずいこと聞いたら、隠すじゃん」
「……人の名前言ってた」
「……」
どきりとする。
……もしかして、無意識に名前を呼んだのだろうか。
「……王道でしょ、これ」
俺の表情を見てそう続けた直人の言葉で、今度こそ嘘だと把握する。
その顔には微笑が浮かんでいた。
「そのサラっと嘘つく癖、絶対直したほうがいいと思う」
負け惜しみのようにそう言って再び布団へ倒れ込む。
取り敢えず名前を漏らすことは無かったようで安堵した。
「好きな人でも出てきた?」
直人が問う。
「……解らない」
「解らない?」
「人は出てきたけど、好きっていうのか良く解らない」
「人間的に惹かれてるとか」
「それとも違う気がする。……良く解らない」
直人は少し間を置いて「そう」、と短く返事をすると、コップを手にして台所へ消えた。
きっとそのまま食事の準備でも始める気だろう。
直人が何かしている音を聞きながら、傍らの携帯を手にする。
……もう、彼は家に帰った時間だろうか。
それとも、またあの親友らしき人とどこかへ寄り道しているのだろうか。
相変わらず熱でぼんやりとした頭に、あの頃とは違う、今の彼の姿が過ぎる。
自分でも不思議だった。見た瞬間に、あの人だと解った。
迷いなど一切なかった。
ただ、歓喜なのか感動なのか良く解らない感情が走ったのを鮮明に覚えている。
……好きな人。
先程直人が言ったその言葉を、再度確認する。
だがやはりそうなのかと言われたらそれもよく解らなかった。
ただ、言葉を交わしたいのは事実で、互いの存在をまた認識し合いたいというのも事実で。
シノザキイチヤ。
その名をなぞれば、胸はざわついた。
愛おしさよりは、希望に近いのかもしれない。
それを求めることによって得られる心の安定。
だからこそ、その存在を、閉じ込めてしまいたい。
誰にも邪魔されない、その場所に。
……思い出が、綺麗なうちに、綺麗なままで。
……。
両の掌を天井に掲げて眺める。
あの日、彼を突き落とした手。
彼に触れた確かな証拠。
もし彼に近づいたならば今度は、突き落とすなんて行為じゃ済まないんじゃないかと、時々自分が怖くなった。
俺は……謝らなきゃいけないのに。
……解らない。
「……何してるの」
と、一旦着替えを持って戻ってきた直人が俺の姿を見て怪訝そうに言った。
「ずっと寝てて退屈だから、運動」
「病人は大人しく寝てるものだと思うけど」
それだけ言って服を傍らに置くと、直人は再び台所へ戻っていく。
明日も、彼の姿を見ることは叶わないかもしれない。
……願わくば。
彼が誰のものにもならないよう祈りながら、食事の前に着替えを済ませることにした。
2012.3.16
hide
その日、世界は一面の白銀世界だった。
ただでさえ楽しみだった今日を後押しする光景に、約束の場所へ向かう俺の足取りはいつもより軽かった。
本来なら歩きにくさを伴う雪の道も気にならない。我ながら単純だと呆れながら、氷の粒をまた一つ踏みしめた。
でも浮かれてしまうのも仕方がないと思う。今日は本当に、夢のような日なのだから。これも全て、勇気を出したあの日のおかげだ。
3ヶ月前の9月28日、幼い頃の記憶から一方的に長年探し続け、密かに追いかけていた人へ、俺は遂に声をかけた。篠崎一夜という、俺より一つ年上の、月のような名前の人だった。
あわよくば一言二言話せれば、と思っていたその日、驚くことに、食事へ誘われるだけではなく、ご家族と友人の多田野さんにまで会わせて貰えることになった。
そんなことがあってから、俺の友人である咲人も巻き込んで、時間が合う時には4人で集まって遊ぶことも増えていた。
目的地の駅前へ向かいながら、昨日のことが思い出される。咲人と多田野さんはどうにも波長が合うようで、昨日も4人でボードゲームで遊んでいる間、二人に戦況を掻き回されていた。
そんな、去年までは絶対に過ごせないようなクリスマスイブが過ごせただけでも嬉しかったのに、クリスマスの今日、夢なんじゃないかと思う出来事が起きた。実際に前へ進む今ですら、俺の胸中は信じられないような思いで溢れている。
当たって砕けろの精神で篠崎さんへメールを送ったのが、4日前。それは、25日に一緒にイルミネーションを見に行ってはくれないか、という誘いだった。
24日の予定はとうに決まった後だったし、篠崎さん自身にも予定があるだろうから、返事に期待はしていなかった。何より、男からクリスマスに二人だけで、なんて誘われても嬉しいはずがない。
そうしていつもより時間の流れを遅く感じながら、不安と期待の元待ったメールに書かれていたのは、『いいけど、どこに行くんだ?』という二つ返事の文章だった。いやいやそんなまさか、篠崎さんも冗談がきついなと、暫く画面を見ながらツッコミの返事を考えてしまったのは記憶に新しい。
少しして正気に戻り場所を伝えて時間などを相談して、篠崎さんが受けてくれた理由も、二人だけでと俺が個人的に誘ったことをどう思っているのかもわからないまま、遂に今日という日に至った。
咲人にも多田野さんにも、今日のことは教えていない。あの日篠崎さんと再会するまで篠崎さんのことを誰にも話さなかったように、なんとなく、話すことが憚られた。
俺にとって、昔から篠崎一夜という人物はひとつ抜きん出て特別だった。それは、こうして個人的な約束を出来るようになった今も、変わっていない。
少しだけ変わったのは、幼い頃から抱き続けていた"一種の衝動"が、本人と時間を重ねることで少しだけ緩和されたことだ。でも、それすらまだ内に張った根元までは枯れておらず、時折芽をだしては、葛藤を繰り返している。
「は……」
駅が近づく程高まる緊張に、落ち着こう、と小さく息を吐く。
気を紛らわすように携帯で時間を確認すれば、約束までまだ大分余裕があった。かなりゆっくり歩いているが、このペースで駅前に向かっても15分前には着いてしまうだろう。とはいえ待つのは慣れているし、遅れて待たせるよりはずっといい。
夕暮れにはまだ少しはやい冬の空を見上げながら、天気が崩れることもなさそうだ、と安心する。電車での移動に時間がかかる場所まで行くため、夕方より少し早めの時間に待ち合わせをしていた。
駅前に近づくほど街路の雪は減り、代わりに人が増え始める。クリスマスに彩られた駅の周辺は、賑やかだった。
以前は何度もこの人ごみの中に篠崎さんの姿を探した。ありえないと解っていても、どこかにいるんじゃないかと、探した。
そう考えると、今の状況は本当に夢みたいで、不思議だった。変化した事実を実感しながら、よく待ち合わせにしているオブジェの前で立ち止まる。
……本当に、なんでOKしてくれたんだろう。
藍色のマフラーに顔を埋めて、地面のタイルを見ながら改めて思う。篠崎さんの事だから深い意味なんてなくて、単純に予定も断る理由も無かったからなんだろうけど。
唐突に家の前に押しかけられて、小さい頃の僅かな記憶だけで探して追いかけていましたって告げられて、篠崎さんは話を聞いた時も平然としたもので、寧ろ多田野さんの方が驚いていた気がするけど、誰も俺を咎めることはなくて。
普通に考えたら危ない人間だと距離を置く筈だけど、今のところ篠崎さんにはそんな素振りもない。篠崎さんは結局の所、俺のことをどう思っているんだろう。案外、どうでもいいから細かいことを気にしないで俺に対応しているんだろうか。
人の優しさには二種類あって、本当に相手を思った優しさと、どうでもいいからできる優しさがあるんだって、聞いたことがある。優しい人が本当は冷たいというのは、多分後者の意味なんだろう。
篠崎さんもそうなんだろうか。じゃなきゃ、俺が距離を置かれていない理由がわからない。自分が同じことをされたら、絶対に大丈夫かコイツって思うのに。
……やばい、なんかだんだんとへこんできた。折角取り付けた予定なのに。
携帯を取り出して再び時間を確認する。約束の時間までまだ10分ほどあった。今日はやけに長く感じる10分だ。
視線を駅前の景色に移して、冬服に身を包んだ人々の波を眺める。当然ながら、その中に篠崎さんの姿はない。
もし、時間になっても姿を現さなかったらどうしよう。実はメールの時からの盛大な釣りで、本当にあの返信は冗談だったんじゃないだろうか。
ありえない話ではない。篠崎さん結構ズレたところある。じゃなきゃ、やっぱり約束を引き受けてくれた理由が解らない。
思わずため息が出る。再びマフラーに顔を埋めて、雪のせいで汚れた地面を見た。
どうにも不安が勝ってしまっているみたいだ。昔からプレッシャーの類には弱くて、すぐに思考が悪い方へ向いてしまう。
何より、こんな考え付き合ってくれる篠崎さんに失礼だ。理由はどうであれ引き受けてくれたんだから、俺は素直に喜べばいいんだ。
折角、あの時みたいな時間がまた過ごせるかもしれないんだから。
「橘」
「!」
突然耳に入った声に、心臓が跳ねて顔を上げる。
目の前には、コートのポケットに両手を入れた篠崎さんが、淡々とした様子で立っていた。
「悪い、結構待たせた?」
「い、いえ……!寧ろ篠崎さん、早くないですか」
まだ時間を確認してからそんなに経ってないはずだ。
「ああ、俺、待ち合わせって相手より早く来たいタイプなんだよな。橘が先に来てて驚いた」
全然驚いた感じはしないけれど、言うならそうなんだろう。
「あ……俺は、暇だったから早めに家を出た感じで」
半分嘘だ。楽しみだったのもあって早めに出ただけだ。
「そうか。なんか暗い顔してたから、待ち疲れてたのかなって」
「違います!ちょっといろいろ、個人的な考え事をしてて」
「ならいいんだけど」
「すみません……」
……やってしまった。最悪のスタートだ。
とはいえ、いざ篠崎さんに会えばやはり嬉しさが込み上げる。直前の考えを吹き飛ばすように、頭を切り替えた。
「ここから目的地まで結構かかるんだっけ?」
「あ、はい。乗り継いで2時間くらいです」
「了解、じゃあ行くか」
「あ、交通費とか、俺出しますので」
「いいよ、俺も楽しみだし」
「……すみません……」
先を歩き出した篠崎さんに続いて、俺も歩き出し隣に並んだ。
篠崎さんは俺より少しだけ背が低い。精神的には逆な気がして不思議なものを感じながら、その横顔をこっそりと盗み見た。
街中で見た瞬間、すぐにこの人だとわかった。記憶の中では小学生だったのに、高校生になった彼の姿が迷いなく認識できた。多分、篠崎さんが纏う雰囲気自体は変わっていなかったんだろう。
「今日、誘ってくれてありがとな」
「えっ」
そんなことをしていれば急に視線が合って驚く。お礼を言う篠崎さんは笑みを浮かべていた。
「あ、いえ、こちらこそ、受けてもらえるとは思ってなくて」
「そうなのか?まあ特に予定もなかったし、断る理由もなかったしな」
「あはは、ですよね……」
想像した通りの理由だった。解ってはいたが、少しだけ落胆を覚える。
「でも、俺と二人でよかったのか?」
「え?」
「いや、多田野とかも多分予定は空いてたと思うし、そうじゃなくてもクリスマスに男二人でイルミネーションって、虚しいだろ」
「あ……俺は、別に」
少し意外な質問だった。男二人で、というのは俺も篠崎さんの気分を気にしていたけど、自分とで良かったのか、と聞かれるとは思っていなかった。
それとも、遠まわしな『本当は昨日のメンツが良かった』という抗議だったりするのだろうか……。
「ていうか、橘ってモテるだろ」
「え!?」
思考が再びネガティブの闇に向かい始めたところで、篠崎さんが発した言葉に引き戻される。
「俺が言うのも変かもしれないけど、小奇麗な顔してると思うし。告白されたことくらいはあるだろ?」
「いえ、俺、コミュ力ないし、友達ですら殆どいないし、性格もアレなので、ほんとう、そういうの、ないです」
……言ってて悲しくなってきた。
実際、中学の頃は学校にもまともに行っていなかったし、高校で咲人に会うまでは、目ぼしい交友関係も無かった。女友達の名前を上げろと言われて、上げられる名前も無い。
「……というか、それ言うなら篠崎さんだってそうじゃないんですか」
「俺は別に」
「そうですか……」
相変わらず淡々としたものだ。篠崎さんはそういった類には本当に興味がないようで、変な言い方、女っけがない。多田野さんがよくそれをネタにしているのも聞く。
「多田野のやつもそうなんだけど、俺の周りのモテそうなやつって大体恋人いないか作ろうとしないんだよな。勿体無いと思うんだけど」
「……」
他人事のように言う。
多田野さんのことは同意だ。でもなんとなく、今まで俺が見てきた所から察するに、多田野さんは恋人を作るより、篠崎さんといるのが楽しいんじゃないのかな、と思う。なんとなくだけど。
俺の場合は単純に興味がないのもあるけれど、それより、基本的なベクトルが篠崎さんに向かいすぎているせいだと思う。本人にそれを言えるわけもないけど。
「まあ、なんにしても俺も一度橘と二人でゆっくり話したいと思ってたからさ。誘ってもらえたのは丁度良かった」
「……そうなんですか?」
「ああ、昔色々あった話を聞いた時は家族も多田野もいて、その辺のことあんまり話せなかったし。話す機会も無かっただろ?あれから結構、あの話のこと気になってた」
「そうでしたか……」
そんな話をしながら改札を抜ける。目的の電車はすぐに到着するようだった。
「相変わらず会った時のことよく覚えてはないんだけど。多分、橘も、話したいこと色々あったんじゃないかと思うし」
「あ……」
さらりと吐き出された言葉に、思わず視線を逸らす。なんでこう、平然と的確な事を言ってくるんだろう。篠崎さんの場合は、これを天然でやってくるから怖いのだ。
「だから誘われたんだと思ってたんだけど、違ったか?」
問いかけられて、再び篠崎さんを見る。まっすぐな視線が俺を見ていた。
「まあ、そんなところです……」
そんな視線でたじたじになりながら答える。それだけ、という訳でもないけれど、大半の理由はそれだ。
篠崎さんの言葉に早くもキャパシティを超えそうになっていると、駅のアナウンスがホームへ響き渡った。まもなくして、最初に乗る電車が到着する。
急行の電車はそれなりに乗客の数があった。空席が見当たらなかった為、二人でドア付近に立つことにする。
「なんか、不思議な感じだな」
「はい……?」
唐突にどうしたんだろう。同じようなことは、俺ももう何度か感じていたけれど。
「小さい頃に偶々出かけた場所で会った、名前も知らない相手と、再会することがあるんだなって」
「それは……まあ、俺が探してましたからね」
「見つけたのがすごいよな。だって会ったの小学生の頃だろ?」
「自分でも驚きなんですけど、見かけた時すぐに解ったので」
「よく解ったな。俺が逆の立場だったら解らなかったと思う」
「まあ……、多分、変なんですよ、俺」
そう、たった数時間の幼い頃の記憶だ。いくら印象的な出来事があったからとは言え、7年も経てば外見は変わる。雰囲気だけで解るはずがないのを本当は俺も解っていた。
それでも気がついたのは、多分、俺が長年抱いていた、独りよがりな"願望"のせいなのだ。執念とも言えるかも知れない。
自分のことを変だと言った俺の言葉に、篠崎さんは、そんなことないと思うけど、と訝しげに返してきていた。
「篠崎さんは、俺のこと、気持ち悪いとか思わないんですか」
「なんで」
なんでって。
「いや、だって、一方的につけ回してたし……、前にも話しましたけど、一度は突き落としたんですよ、俺。普通は警戒しますよ」
「でも、今まで遊んだりとかしても、別に危ない奴だと思わなかったしな」
「それは、俺も別にそういう素振り見せてなかったと思いますし」
「……気持ち悪い奴だって思って欲しいのか?」
「え……いや、そういうわけでも、ないですけど……」
「じゃあいいだろ。俺は本当にそう思ってないし」
「……、」
「多分、変な奴なんだよ、俺も」
言って、篠崎さんは視線を窓の外へ逸らした。
「……そう、ですか……」
そう返すしかなかった。篠崎さんはどこまでも篠崎さんだ。これはもう変わり者を通り越して、篠崎一夜という一つの新しい人種なんじゃないだろうか。
そんなことを考えながら、俺も動き出した電車の窓から暮れ始めた空を眺める。青色と混ざりながら薄オレンジ色のグラデーションを描く空が、綺麗だった。
それから暫く無言の時間が続いた後、篠崎さんが「そう言えば」と昨日の話題を持ち出した。
そんな風に、互いに他愛ない話を持ち出しながら、何度かの乗り換えを経て、すっかり夜になった頃に目的の場所へ辿り着いた。
「流石に人が多いな……」
周辺にいる大勢の人々を見ながら、篠崎さんが気圧されたように言った。
話題の場所だった為、人が多いことは事前に把握済みだった。篠崎さんにもそのことは伝えていたから、承知はしていただろう。
だが流石に人気の場所だけはあって、特設のイルミネーションは素晴らしいものだった。色とりどりの電球でクリスマスらしくライトアップされた一帯は、明るく、幻想的と言っても過言では無い。
篠崎さんを見てみると、人の多さには戸惑っているようだが、イルミネーション自体は楽しんでいるようだった。一先ず安心して、辺りの装飾へ再び視線を戻す。
「橘が見たいのって、巨大なクリスマスツリーだよな?」
あのサファイアを散らしたような配色が綺麗だ、などと木の枝に装飾されたライトを見ていると、周囲の声に紛れて篠崎さんの質問が耳に入る。
「そうです。ここより奥の方にある筈です」
「了解。……移動も一苦労だな」
目の前の人混みを見ながら、篠崎さんが苦笑を浮かべる。
「すみません、もっと静かな場所に誘えれば良かったんですけど」
候補自体は他にも考えていた。ただ、今日に至っては多少不便でもここに来たい理由があったのだ。
「ああ悪い、承知してたからそれはいいんだけど。はぐれないかと思ってさ」
「ああ……確かに」
メインのツリーに近づけば、人の数はここよりもっと増えるだろう。イルミネーションで明るいとは言え、薄暗いことには変わりないし、俺も篠崎さんも暗い色の服を着ているため、はぐれたら見つけにくそうだ。
お互い携帯の連絡先は知っているし、仮にはぐれても合流できなくなるわけじゃないけど。
「……大丈夫ですよ。はぐれたらどこかで待ち合わせして、合流すればいいだろうし」
「そうか?」
「はい」
俺の言葉に納得したのか、篠崎さんは「じゃあツリーに向かって歩くか」と移動を始めた。
数々の装飾を横目に歩いていけば、すぐにこのイルミネーションの目玉である、全長60メートルほどの巨大なクリスマスツリーが見え始める。
それに合わせて、やはり段々と人の密度も上がり始めた。
「近くで見るのは難しそうか」
進むたびに増える人の数を見て、篠崎さんが呟く。
「あ……最悪、時計のあたりが見えれば大丈夫です」
言って、ここからだとどの程度だろう、と時計部分に視線を向けた。
一週間だけ設置されている巨大なツリーの中心部には、大きなデジタル時計が設置されている。そしてその時計のすぐ下には、一時間ごとに演出する、鳩時計のような仕掛けがついていた。
俺が今日これを見に来たいと思ったのは、その『仕掛け』が目的だった。
この位置からだと、見えはすれど細部までは把握できなさそうだ。
「それこそ近くで見たいだろ。俺も見たいし」
「え、あ」
篠崎さんが突然俺の腕を掴んで歩き出した。いきなりのことに驚きながら、引かれるまま篠崎さんと人混みの中へ入っていく。
思うように進めないためか、篠崎さんは時々強引に人の波を掻き分けているようだった。その度、腕を掴む力が僅かに強くなる。
移動しづらい原因の一つには、カップルの多さもあった。ペアでくっついている為、中々隙間ができにくい。
そんな中を、篠崎さんに腕を掴まれている事実に翻弄されながら、隙間を縫うように進んでいった。
やがて少しだけ空間がある場所へ辿りつき、篠崎さんは腕を離して立ち止まった。
「このあたりまでくればいいだろ」
「……有難うございます」
しどろもどろになりながらお礼を言う。混乱と手首の感触が中々消えなかった。
呼吸を整えるように小さく息を吐いて、改めて目の前の数字が並ぶ電光板に目をやる。次の演出が始まるまで、あと3分ほどという所だった。余計に人が多いのも、多分そのせいだろう。
さっきは本当に驚いたが、篠崎さんのおかげで、大分見やすい位置に来ることができた。
「橘に誘われて、このイルミネーションのことちょっと調べてきたんだ」
「あ……そうだったんですか」
「ああ。橘、人形見に来たんだろ」
「……、」
篠崎さんの言うとおりだった。もう少しで始まろうとしている時計の演出は、時間が来ると天使の人形が扉から数体出てきて、音楽に合わせてぐるぐると回るというものだった。
その人形というのが、あの、昔篠崎さんと会った展示会で展示されていた人形の、作者が関わっているものだったのだ。
「なんで言ってくれなかったんだ?言ってくれれば、誘われた理由もっと早く理解できたのに」
「……なんとなく、言いにくくて」
いつまでも一人で昔のことに固執して、いいことばかりでは無かった思い出を大事にして、縋っていることが、なんとなく恥ずかしかった。
「そのこと一言も言わなかったから、単純に出かけたいだけかとも思って、二人でいいのかって思ったんだけどさ。聞いたらやっぱりそういうわけじゃなさそうだったから」
「すみません……」
「俺も、思い出したいからさ。……あんまり卑屈になるなよ」
篠崎さんがそう言った所で、時計は19時を表示し、クリスマスに因んだ音楽が流れ始める。
仕掛けの扉がライトアップれされ、ゆっくりと扉が開くと、ターンテーブルに乗った人形が3体、奥から姿を現した。周囲の人々が、合わせるように携帯を翳し出す。
「橘は撮らなくていいのか」
「俺は、肉眼で見ておきたいので」
静かに会話を交わして、回る人形へ注目した。
ブロンドの髪に、白い衣装。少女の天使には、所々重なったレースがあしらわれているのが解った。3体それぞれ違うポーズを取って、憂いげな笑みを浮かべてながら回っている。
繊細な綺麗さだけではなく、どこか廃退的な雰囲気を醸し出しているそのデザインは、間違いなく、あの作者が手をかけた人形だと解った。端正な顔の造形は言うまでもない。
スローモーションで回る天使を見ながら、脳裏に幼い日の記憶が蘇った。こうして隣に幼い篠崎さんがいて、目の前には、人を手にかけたばかりの男の人がいた。
……あの人形の、作者がいた。
どうしてだろう。俺はその事実を知っているはずなのに、どうしようもなく、今、この瞬間に感動している。あの日のように、シノザキイチヤとこの作品を見ていることが、堪らなく嬉しいのだ。
あの人に、全てを狂わされた筈なのに。この小さな衝動を、植えつけられたはずなのに。このまま時間が止まればいいのにと願ってしまう。止めてしまえればいいのにと思ってしまう。
だが現実は時間が止まるなんてことはなく、一分ほどの演出を終えた人形は、再び扉の向こうへ戻っていく。
演出が完全に終わるのと同時に、周りに居た人々も移動して疎らになっていった。それでも決して少なくはないが、窮屈さは無くなったように思う。
「……どうする?もう一回位見ておくか?」
そうして篠崎さんが最初に言ったのは、そんな言葉だった。
「いえ、一時間待つのも大変だし、大丈夫ですよ」
それに、なんとなく二回目を見て、先ほどの時間が上書きされるのが嫌だった。初見の感動は、やっぱり、一度目にしか得られない。
「そうか。……悪い、俺、小夜と母さんにこのツリー撮ってこいって言われててさ。ちょっと撮ってていいか?」
「ああはい、ごゆっくり」
言うと、篠崎さんは携帯を取り出してツリーへ傾けだした。
どうせなら、さっきの演出を撮ればよかったのに。思うも、篠崎さんも一緒に肉眼で見ていた事実に、内心嬉しさを感じていた。その方が、同じものを見ていた事がより実感できる気がする。多分俺は、機械の中に思い出を残すという行為が苦手なんだろう。
……とは言え、今日篠崎さんとここへ来た証拠くらいは、残しておいてもいいかな。
思い至って、俺も携帯を取り出すと目の前のツリーへ翳した。画面にレンズ越しで実際より暗くなったツリーが映り込む。篠崎さんは、さっきの演出をどんな思いで見ていたんだろう。
と、横から男女の4人組が話をしながら近づいて来るのが解った。邪魔になる、と一旦カメラを下ろして道を開ける。すると今度は後ろからカップルが近づいて来て、ぶつかりそうになってしまった。
「すみません」
小さく謝って横に避ける。女の人の方が軽く「すみません」と謝り、通り過ぎていった。
本当に俺、間が悪い……。
気を取り直して、もう一度携帯をツリーへ翳す。今度は何事もなく携帯の中に収めることができた。
篠崎さんは、と、先ほど篠崎さんが居た場所を見やる。
「……?」
そこに、篠崎さんの姿はなかった。
周囲を見回すが、篠崎さんらしき姿はない。先ほどより人は減ったとは言え、まだ周囲には沢山の人が密集している。探すには、少々分が悪かった。
「……」
そうして何故か、俺は夢から覚めたような気分に苛まれた。本当は今日ここに来るまで、俺はずっと一人だったんじゃないだろうか。篠崎さんと再会したのなんて嘘で、そんな夢を見ていたんじゃないだろうか。
考え出すと途端に周囲の喧騒が耳をつく。急激な心細さが込み上げた。
違う。そんな訳無いのに。いい加減信じろ俺。
とにかく連絡を、と改めて携帯を開く。その瞬間、背後から肩を掴まれた。
「っ!」
驚いて振り返る。
「悪い、撮ろうとしてる間に人混みに流された」
言いながら、篠崎さんが苦笑を浮かべていた。
「あ……いえ、すみません、俺もちょっと流されかけたので」
「そっか、やっぱこの辺危ないな。早いところ抜ける?」
「そうですね」
急激な安堵を覚えながら、篠崎さんの言葉に応えた。
「……どうかしたか?」
「え?」
「いや、なんかさっきすごい不安そうな顔してたから。気のせいならいいんだけど」
「いえ、すみません、大丈夫です」
「そうか?」
少しだけ不審そうにしてから、篠崎さんは帰り道をみやった。
「……やっぱ混んでるな」
皆考えることは大体同じなのか、先ほどここにいた人々が移動しているため、今度は向こうの道が混雑していた。
この辺りに土地感もないため、駅までの道もあの方向以外よく解らない。
「……」
「……?」
篠崎さんは何やら考え込むように人混みを見ている。どうすればはぐれないで済むか考えているんだろうか。
「……橘、手」
「手?」
「借りるのは流石にない?」
「え……」
遠慮がちに切り出した篠崎さんの言葉の意味が、よくわからなかった。
それはつまり手を繋いで行く、ということだろうか。
……。
「えっ、いや、なくはないですけど……!」
さっきは一方的に腕を掴んだのに、どうして今度はそうなるんだろう。というか俺もなくはないとか言って大丈夫だったのだろうか。ここで了承するのは変なんじゃないだろうか。俺は元々変だけど!
「これだけ混んでれば、繋いでても殆ど見えないだろ」
言うが早いか、篠崎さんは早々に俺の手を取って人混みの中へ突入した。
「……、」
俺は頭の中が真っ白になりかけながら、再び手を引かれて必死に前へ進んだ。
「……っ」
駄目だ、ちゃんと握ってないと流されそうになる。恐れ多さから握り返すのを躊躇っていたが、観念してその手を握り返した。
篠崎さんの手は俺より暖かった。……あの時も、そうだったような気がする。
人混みはすぐに終わりを告げ、広くなった場所へ出ると繋いでいた手はすぐに離された。
「……悪い、いきなり手繋ごうとか言い出して」
俺と視線を合わせづらそうな様子で、下方を見ながら篠崎さんが言った。
「いえ……」
俺はただただ緊張して、それしか答えることができなかった。
「二回目だよな」
「え……」
「手、繋ぐの」
「……そう、ですけど、なんで」
「記憶は紐づけされるっていうから、そのせいかもな」
「……」
「ちょっと、懐かしかった」
そう言って、篠崎さんは遠い目で微笑を浮かべた。
「……」
なんなのだろう、この人は。
俺はただ、早鐘を打つ鼓動を落ち着けながら、そう思うことしかできなかった。
***
篠崎さんは、あの日のことを完全に思い出したわけでは無いらしかった。ただ、先ほど俺とあの人形を見たことで、夢のように漠然としたものが少し鮮明になったとだけ、説明してくれた。
「今日、橘とイルミネーション見に行くって、小夜に話した時にさ」
「はい?」
帰りの電車で、行きと同じように二人でドア側に立ちながら、篠崎さんが徐に切り出した。
急ぐこともないからとタイミングで乗り込んだ各停の車内は、行きに比べれば人が少なかった。空席もあったが、俺と篠崎さんはどちらからともなく向かい合って立つことを選んでいた。
「いくら友達とは言え、イルミネーションを男同士で見に行くなんておかしいよ、って滅茶苦茶抗議されたんだけど」
「はい」
「おかしいかな」
「俺に聞かれても」
淡々と聞いてきた篠崎さんに、淡々と返す。
そもそも、俺は誘った側の人間だ。そんな人間におかしいか、と聞かれても、答えなんて決まりきっている。俺はおかしいと思いながら誘ったけど。
「……相手が橘だから、申し出受けた部分って、多分あるんだよな」
「……」
今度は何を言い出す気だろう。
「多分俺、これが多田野の申し出だったら、いいって言う前になんで、って返してたと思う。咲人だったとしても」
俺に説明している、というより、自問自答に近い言葉に感じた。それは多分、視線が下方を向いていたからだろう。
なんにしろ、俺は聞いて困惑するしかない。どう聞いても、篠崎さんの言葉は俺を特別視するものだ。
「橘はさ」
「はい」
今度は名前を呼ばれた為、きちんと受け答える。
「なんで、ずっと俺に会いたかったんだ」
「あ……」
会いたかった理由。会いに来た理由ではなく、会いたかった理由を聞かれたのは初めてだった。それだけは、今まで話したことが無かった。避けていたのだ。
だって、会いたかった理由なんて、あの日まで俺の中に潜んでいた切望なんて、
「……」
言えるわけがない。
――あなたの時間を止めて永遠にしたかった、なんて。
「ごめん、話しにくいこと聞いたか」
「あ、えっと……」
異様な聡さで、篠崎さんはすぐに苦笑を浮かべながら言ってきた。
「……」
俺はどう答えればいいのかすぐにわからず、顔を伏せて電車の走行音を聞いていた。手を繋いだ時とは別の理由で、鼓動が激しく脈打っている。
まともじゃない理由だ。今度こそ、変な奴じゃ済まなくなる理由だ。篠崎さんは、小さい頃だからあんなことをしてしまったと思っているのだろうけど、あれは、ただの始まりでしかない。
だからといって、この先も誤魔化し続けていくんだろうか。今でこそ、こうして一緒に時間を重ねているお陰で昔よりは落ち着いてきたけど、さっき時計を見ていた時みたいに、衝動はふとした瞬間に蘇る。それを、ずっと心の中で育てていくんだろうか。
いっそ話してしまって、この先の関係ごと、篠崎さんに委ねてしまったほうが、お互いの為なんじゃないだろうか。なにしろ、篠崎さんに足りないのは警戒心だ。俺のような人間を許容しすぎている。
「……前にも、話したと思うんですけど」
話してしまおう。今日、この後篠崎さんが俺のそばから離れたとしても構わない。今日という日が過ごせただけで、俺は幸せだった。もう十分だ。これ以上この人を裏切りたくない。
「ああ」
篠崎さんも静かに聞く姿勢に入る。
「俺は昔、篠崎さんを階段から突き落としたことがありますよね」
「ああ、だから謝るために会いに来たんだろ?……でも俺は、それとは別に会いたかった理由があったんじゃないかって、ずっと感じてた」
「そう、ですね」
答えて、思わず自嘲が浮かんだ。これから俺は、篠崎さんに酷いことを告げなければいけない。
「同じ日に、殺人現場を見たってことも、話したと思います」
「ああ。そこは、まだよく思い出せないけど、多分手を繋いだ時なんだよな」
「はい。……それと、同じなんです」
「……?」
篠崎さんは俺の言葉がすぐに理解できなかったようで、眉をひそめていた。
「あの男の人が、今日見た人形の作者が、女の人の息の根を止めた理由が理解出来たんです。だから、同じものを、あの日、篠崎さんに向けました」
「……」
そこまで言えば理解に及んだようで、篠崎さんの表情は神妙なものに変わった。
「あれから、俺はずっと一人で、同じ願望を抱き続けていました。……あの日の思い出だけが俺の唯一で、篠崎さんごと、あの日を俺のものにしてしまいたかった」
そこまで話して、俺は視線を電車の外へ向ける。流れる夜景が目に入った。篠崎さんは、俺の話をどう飲み込んでいるんだろう。
「だから、俺は」
「橘」
話し続けようとした俺の言葉を、篠崎さんが遮った。
「……はい」
呼ばれて、篠崎さんへ恐る恐る視線を向ける。
「次の駅で一旦降りよう」
篠崎さんは、いつの間にか普段通りの表情で俺を見ながら、そう言った。
「……、はい……」
どうしたんだろう。疑問に思うも、それから篠崎さんは黙り込んでしまったため、なんとなく聞けなかった。
宣言通り、次に停車した駅で一旦降りる。各駅停車でしか止まらない駅のホームは、宵闇に包まれて暗く、人の姿はほとんど見当たらなかった。
篠崎さんは改札へ向かうことはなく、すぐに近くのベンチへ腰を下ろした。俺は不安を抱きながら、篠崎さんの行動を見守る。
「悪い。ずっと動きっぱなしだったし、行きも帰りも立ってたから」
そうして、誤魔化すように笑いながら言う。
「……橘は、疲れてないのか?」
「あ……少し、だけ」
暗に隣に座れと言われたような気がして、俺もゆっくりと隣の椅子に腰を下ろす。同時に、この人は嘘が下手なんだな、と思った。
「さっきの話」
「え」
「続き、聞かせて欲しい」
「……」
ああ、その為にわざわざ降りたんだ。
……確かに、人のいる場所であの話をされたら、気まずいだろう。俺も気を使うべきだった。
「ええと、上手く理解できてなかったら悪いんだけど、つまり俺は、橘に殺されかけた、ってことだよな」
俺がすぐに話始めなかったためか、促すように篠崎さんが話しだした。率直な言葉で言われると、事態の重みが良く解る。
「そういうことに、なります」
「今もそう思ってるのか?」
特に怒っている素振りもなく、篠崎さんは普通に質問してきた。俺の話、怖くないんだろうか。
「思って、ます。時々、どうしようもなくあの衝動が蘇るんです。……今日も、ありました」
俺は正直に答えた。
「そうか」
篠崎さんは俺の言葉に対してただ短くそう言った。その声も、至っていつも通りだった。
「……」
俺は篠崎さんの考えがよく解らなくて、静まり返ったホームの地面を見ていた。こんな話をされて、篠崎さんは大丈夫なんだろうか。今すぐ、席を立ってくれていいのに。
「……俺には、橘のその感覚ってまだ上手く理解できないんだけど、何かで埋められるものじゃないんだよな?」
再び、篠崎さんはそう切り出した。
埋められるもの。そういうものとは違う。きっとどれだけ満たされても、その都度衝動は湧き上がる。それを、今日再確認した。
「無理、なんだと思います」
だから俺はそう答えた。篠崎さんは再び「そうか」と言うと、小さく息を吐いた。
「……だから」
俺は続けた。
「うん?」
「もう、俺とは関わらないほうがいいかもしれません」
「……」
耐えかねて、自分から言った。篠崎さんは何も言わなかった。
「俺、篠崎さんと再会できて、今日みたいな時間を過ごせて、凄く嬉しかったです。でもこんな話聞いたら、篠崎さんも俺と付き合いにくいと思うし」
だから今日で会うのをやめるのが一番いい。それが寂しくないわけじゃないけど、この先を考えたらそれが一番いい選択だ。
「……」
暫く無言の時間が続くと、篠崎さんは徐に立ち上がり、歩き出した。当たり前だ。俺の近くにいたいわけがない。俺はそれ以上篠崎さんを見ているのが辛くて、再び視線を落とした。
ほんの数ヶ月だったけど、篠崎さんと再び会えて、話ができて楽しかった。一緒に、あの人形を見ることもできた。それだけでも凄いことだった。
多分、俺は会わなくなっても、また一方的に思い出に縋ってしまうのだろう。でも、今度は追いかけることはもうしない。……それは、出来ない。
「橘」
「……はい?」
離れていったと思えば名前を呼ばれて、思わず訝しげな返事を返した。
篠崎さんを見れば、ホームの線の近くに立って、小さく笑いながら俺を振り返っていた。その笑みは、悪戯をしかける子供みたいだった。
「……?」
「背中、押してみろよ」
「は?」
そして吐き出された言葉に耳を疑う。
「いや、何言って……」
「そうしたかったんだろ?なら、やればいいだろ」
篠崎さんは抵抗しないと意思表示でもするかのように、小さく両手を広げた。
……何を考えているんだろう。
軽い憤りが沸く。
「そんなの、出来るわけないじゃないですか……!」
「なんで」
きょとんとした表情を浮かべる。
「なんでって……、そんな、当たり前のこと」
「なら、大丈夫だろ」
「え……」
「出来ないんだろ?……なら、大丈夫だ」
そう言った篠崎さんは、暖かな笑みを浮かべていた。
「……っ」
それを見て、俺は思わず込み上げてくるものを抑えた。
なんで、この人はこの期に及んで、こんな表情を向けてくれるんだろう。
大丈夫だなんて、そんな簡単な仕組みの感情じゃないのに。自分ですら、自分に恐怖を覚える衝動なのに。
「それは今だけで……、もしかしたら、いきなり首をしめてしまうかもしれないんですよ」
自分自身に抵抗するように反論する。
「その時は俺が止めればいいだろ」
「昔みたいに、いきなり階段から突き落とすかもしれない」
「じゃあ、階段は橘の後ろを降りる」
「……、そうじゃなくても、そういう隙をつくかも」
「それは……、まあ、気をつける」
「なんで……」
なんで篠崎さんは俺を突き放さないんだろう。俺は、殺人予告をしたようなものなのに。
「俺はこの先も橘と居たいしさ。大事な人に、ひどいことはさせたくないだろ」
「っ……」
優しげな口調に、俺はそれ以上篠崎さんを見ることができなかった。マフラーに口元を隠して、目頭が熱を帯びるのを堪える。
駄目だ。俺は、どうしようもなくこの人に焦がれて仕方がないんだ。
隣にいさせてもらえる。一緒にいたいと言ってくれた。こんな奴なのに。うまく言葉にならないこの気持ちを、どう処理すればいいんだろう。
「……ちょっと飲み物買ってくる」
泣きそうな俺に気を使ったのか、篠崎さんは静かに自販機へ向かっていった。俺はただ、泣かないように座っていることしか出来なかった。
その優しさが嬉しい。嬉しいけれど悲しい。酷く惨めで、でも篠崎さんは俺を受け入れてくれて。どうして俺はこんななんだろう。俺だって篠崎さんの為になにかしたいのに、いつだって俺は、救われてばっかりだ。
「お茶で良かった?」
暫くして戻ってきた篠崎さんは、小さなホットのペットボトルを俺へ差し出した。俺は声を出すことができず、無言でそれを受け取るしかなかった。篠崎さんは再び隣に腰を下ろす。
緑茶のパッケージとボトルの暖かさで、落ち着きかけていた涙腺が再び緩み始める。頭の中がごちゃごちゃだった。
「驚いたけどさ」
また、独り言のように、篠崎さんは話し出す。
「俺、そういうの向けられてても大丈夫だから」
「……」
「それに橘のそれは、悪意じゃないだろ」
駄目だ。
「なら別に、軽蔑もしないし」
駄目だ。
「だから、あんまり我慢するなよ」
「っ……」
その言葉で、遂に涙が頬を伝った。最悪だ。篠崎さんの前で泣きたくはなかった。
俺が嗚咽を堪えているあいだ、篠崎さんは何も言わず静かに隣で座っていた。俺はただただ、早く気持ちを落ち着けることに必死だった。
***
「……すみません」
「落ち着いたか」
「はい」
電車を一本遅らせた後、ようやく俺も落ち着きを取り戻し、今度こそ帰路に戻ることとなった。
「悪かったな、急に降りようとか言い出して。嘘ついたのあからさまだったよな」
間もなく来る次の電車を待ちながら、篠崎さんが苦笑交じりに切り出した。
「あ……いえ、すみません、あんな話、車内でされたら困りますよね」
「いや、俺は大丈夫だったんだけど、橘が話しにくいかと思ってさ」
「俺は……、自分がおかしいのは解ってるし、慣れてるので」
「そうか?……まあでも、結果的には正解だったな」
その口調は篠崎さんにしては珍しく、からかうみたいだった。そんな篠崎さんに新鮮味を感じつつ、泣いた事実に恥ずかしくなる。
「でも、本当の話さ」
「はい?」
「大丈夫だから、俺。気にするなよ」
「……有難うございます」
篠崎さんは念を押すように言う。俺は礼を言うことしか出来なかった。
それにしても。
「怖くないんですか」
「怖い?」
「殺されるかもしれないって」
「ああ……」
俺の問いに、篠崎さんは考えるように視線を逸らした。
なんて返ってくるんだろう。気になりながら、篠崎さんの言葉を待つ。
「平和ボケしてるのかもな」
少しすると、遠まわしな肯定の言葉で、平然と篠崎さんは答えた。
「……そうですか」
それを聞いて、ふと思う。
この人も、実は普通じゃない『何か』が、奥底に根を張っているんじゃないか、と。
俺のような人間を惹きつける理由が、なんとなく解った瞬間だった。
***
その後は他愛ない会話を交わしながら電車を乗り継いで、言い忘れていたお茶のお礼を伝えてから、駅前で別れた。
昼間とは違う心の浮遊感を抱きながら、引き続き帰り道へと向かう。想像以上に色んなことがあった一日だった。勇気を出して誘ってみて、よかったと思う。
……篠崎さんは、俺の中の衝動を我慢するなと言ってくれたけど。
多分俺は、この先も秘めながら過ごすんだと思う。承知してもらえただけでも、充分救われた気分なんだ。そんな易々とぶつけていいものでもないし、ぶつけたいものでもない。
なんとなしに空を見上げれば、満月が浮かんでいるのが目に入った。その明るさに、つい先ほど別れた人を思い出す。
本当に、不思議な人だと思う。――幼い頃に出会ったのが、篠崎さんで良かった。
そんな気持ちを噛み締めると、歩行者信号の点滅に気がついて急いで横断歩道を駆け渡る。
次はいつ会えるだろう。後でメールも入れておこう。
一人想いを巡らせながら、12月の夜空の下を歩き出した。
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15.12.23
" Birthday0923 "
休日のコンビニエンスストア。
様々な人々が見受けられる店内のドリンクスペースの前に、極端な印象を持つ二人組みの姿があった。
一人は、長身の印象を持たせる男性……藤堂直人。その片手に持たれたカゴには、適当に詰め込まれたと思われる商品の
数々が種類も不揃いに入っていた。
そんな藤堂が現在動向を見守っている、藤堂とは反対に身長が低めの印象を持たせる少年……秋山咲人は、ずらりと並ぶ
パッケージを眺めつつ、その選択に迷っている様子だった。
二人は先程から、藤堂が荷物持ちに徹していて、物選びは咲人に任せる、という調子をずっと続けていた。
「こっちとこっち、どっち買ってく?」
「両方買えばいいと思う」
「直人さんそれ極論だってば」
そんなどこかちぐはぐな会話も度々繰り返しつつ、買い物カゴの中に商品は増えていた。
「やっぱり多田野さんにも少し付き合ってもらったほうがよかった気がする。あの人一夜の好みめちゃくちゃ把握してるみたいだし」
「……まあ、でも適当で大丈夫だって言ってたし、大丈夫なんだと思う」
「や、でも自分で言うのもあれだけど……適当すぎるっしょ、これ」
言って、咲人はカゴの中へ視線を向ける。
ある程度の取捨選択はしたものの、ほぼ目に付いたものを投げ込んだだけのラインナップがそこには入っていた。
「パーティーの買い出しなんてこんなもんだと思う」
咲人の言葉に対し、淡々とした様子で藤堂が言う。
「……んー……それもそっか。じゃー、あとこの二つで会計行く?」
「いいと思う」
「んじゃもう一個カゴ取ってくる。……そういえば直人さんはお酒とか」
「好きじゃないからいい」
「あ、そうなんだ」
「……欲しい?」
「え、いいの?」
「1、2本なら」
「……っていうか冗談だよね?」
「一応」
「直人さんほんと冗談解りにくい」
言いながら、咲人が1.5リットルのペットボトルを二本、カゴの中に入れた。
***
「ちょっと、協力して欲しいことがあるんですけど」
きっかけは数日前に遡る。
学校帰りの学生が目立つ、夕暮れ時のファーストフード店。
その中に、何となく不釣合いな3人組の姿があった。
不釣り合いを印象づける原因は、恐らく二人は違う制服に身を包み、そしてもう一人に至っては明らかに年が離れているからだろう。
学生の一人である咲人のその発言に、隣に座っていた、非学生の藤堂が咲人をみやった。
「……協力?」
泣きボクロが印象的な、もう一人の学生……多田野仁志は目の前の二人に向かい、そう言った。
「余計なお世話かもしれないけど、やっぱり、一夜に対して出来ることはしたいっていうか。折角の誕生日だし、 ここは一夜と付き合いの長い多田野さんにも協力してもらえたらと思うんです」
「因みに、藤堂さんも秋山君に完全同意な感じですかね」
多田野は咲人への返事を一旦後回しにすると、逆に先程から咲人の言葉を待つだけの藤堂へ質問を投げかけた。
「……迷惑じゃないなら、俺も、なにか出来たらとは」
「別に迷惑じゃないと思いますよ。……ただ、正直に話したら気は使わなくていいって言われちゃうかなーと」
「ですよね」
咲人は多田野の言葉に落胆気味の表情を見せると、先程から少しづつ減っているオレンジのフラペチーノを一口飲み込んだ。
「とはいえ、俺も今年のいっちゃんの誕生日はちょっと考えてたんですよねー。協力するんで、サプライズってことにします?」
「おー、ありがとうございます!……サプライズってことは、当日どっきり?」
「多分そうなるね。なんで、お二人のどちらかの部屋借りられると助かるんですけど」
「あー、だったら直人さんの部屋の方がいいかも、誰もいないし」
「どうです?藤堂さん」
「それでいいなら」
「じゃあそういうことで。いっちゃんは俺が適当なこと言って連れてくんで」
「りょーかいです!……なんか俺たちでやっておくこととかありますかね」
咲人の問いに多田野は暫し考える素振りを見せる。
「……買い出しとか?あと渡したいものとかあれば用意すればいいだろうし」
「なるほど」
「いっちゃんの家、家族仲良かったから、誕生日とかちゃんと家族で祝ってたみたいで。言わないけど、いっちゃんも考えることはあると思うんだよね」
「……それって、気にしてる様子とかは」
どことなく真摯な様子で言う多田野の言葉に、咲人が遠慮気味に聞いた。
「気にしてるっていうか、あんまり思い出には触れないようにしようっていう感じ?だから今回の申し出、良かったんじゃないかと思うよ」
多田野は咲人が遠慮がちだった為か、取り繕うように軽い調子で答えた。
それに対し咲人はそうですか、と短い返事を返す。
「……因みに、篠崎君に食の好みとかは?」
今まで黙って二人のやり取りを見守っていた藤堂が、今度は入れ替わるように聞いた。
「あー、取り敢えず甘いものがあればあとは適当でいいと思います。よっぽど変わり種じゃなければ」
「了解」
「……今年23日って休日でしたよね?時間とかは決まってます?」
そして多田野が二人へ問う。
「昼くらいから?」
咲人が藤堂に確認すると、藤堂はいいと思う、と端的に答えた。
「じゃあ1時くらいで」
「では一時くらいに連れてきます……っと、そういえば俺、藤堂さんの家知らないですよね」
「……ああ」
多田野はカバンから筆記用具を取り出すと、藤堂に手渡し住所を書いて欲しい、と求めた。
藤堂は言われた通り、筆記用具を受け取るとサラサラと走り書き気味に部屋のある住所を書いていく。
「なかなかの癖字ですね、藤堂さん」
書き出された文字を見て多田野が物珍しげに言った。
「……よく言われる」
書き終わった藤堂が、筆記用具一式を多田野へ返した。
「場所解る?」
今しがた書かれたメモに目を通す多田野へ、藤堂が聞いた。
「この建物の近くにある洋菓子屋さんに凄く綺麗な女性店員いますよね」
「あ、それ多分いらっしゃいませのイントネーションが独特な人だ」
「あーそうそう、その人だと思う。じゃあその人口実にしていっちゃん連れて行きますかね」
「……なにそれ?」
咲人がいまいち言葉の意味が理解できない様子で言う。
「俺、普段からそんなことばっかり言ってるもんで。ついでにそこでケーキも調達しちゃいますか」
「……休日はその人入ってないと思う」
唐突な藤堂の言葉に多田野が藤堂を見た。
「マジですか。……藤堂さん常連さん?」
「それなりに知り合い」
「今度紹介してください、是非」
「……そのうち」
「とまあ、口実が出来ればいいから、いないならいないで問題ないんで」
「あ、無いんだ。……そういえば、勝手に話すすめてるけど一夜の予定はどうなんだろう」
先程のやり取りを見てか、取りあえずは納得した様子で咲人が更に思い出したように言った。
「ほぼ大丈夫と思ってていいと思う。駄目そうなら連絡するんで」
「じゃあ、一先ずこんな所?」
「まだ少し日数あるし、また何かあったら話し合う感じで」
咲人と藤堂が頷く。
「ではまた後日!」
多田野の言葉をきっかけに、各々は席を立ち解散となった。
***
「いっちゃん、今週末の日曜って空いてるー?」
「今週末……って23日か。空いてるけど」
23。その数字を思い浮かべて、一夜は深い思考回路を遮断した。
別に、特別意識していたわけではなかった。だが先日、そろそろあれから一年くらいかとぼんやりカレンダーを眺めていた時、 まるで呪文の数字のようにその数字を見て例年の23日が浮かび上がった。
もう、そんな大げさに家族ぐるみで祝うような年でもないだろうと高校一年の頃には告げた。
だがイベントごとの好きな母や妹はそれを聞き入れる気配はなく、なんだかんだ楽しそうな二人を見るのは一夜も好きで、 結局頑なにそれを拒否をすることはなかった。
だが、それも全て去年までの話。
自分の前で笑っていた家族の姿は、もう現実にありはしなかった。
「……ちょっと一日付き合ってよ。隣町まで行きたいんだけど一人じゃ暇だからさ」
「いいけど」
ああ多分、多田野は気を使っているんだろう、と一夜は思う。
多田野は気の回る男だ。自分の家庭のことにも詳しかった。この日の事を気にするだろうと見越して、 こうして誘ったのだろう、と。
一瞬、一夜はそういう気遣いはしなくて大丈夫だ、と言おうかと迷い、すぐに思い直した。
ここで断ったとしても、どうせ複雑な気持ちのまま一人休日を過ごすことになると思う。
ならば、気づかないふりでもして、友人の厚意に甘えるのはありだと思った。
それに自分が気を使うなという事くらい、きっと多田野は解っている……そう考えると一夜は気を取り直して、更に話を続けることにした。
「それで、隣町まで何しに行くんだ?」
「え?プロポーズですよ?」
「……は?」
親友の口から飛び出した言葉に、一夜は思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「……やっぱやめとく。頑張ってこいよ」
「大丈夫だって、俺の本命はこの先もいっちゃんだけですから」
「いや、そういうことじゃなくて」
「ほら、隣町の洋菓子屋さんにさ、凄く綺麗なお姉さんいるじゃん」
「あー……、うん、多分解る」
「ちょっとあの人に会いに行きたい気がするっていうか? あの人の挨拶、妙に癖になるんだよねー」
「……というかプロポーズじゃなくてナンパだろ、それ」
「いやいや、そんなその場限りのお付き合いには興味ないですから、俺」
「……」
一夜は相変わらずの調子で言葉を紡ぐ友人に呆れつつ、まあいいか、と小さくため息をついた。
……9月23日。
世に言う、己の誕生日だ。
家族が殺されて、自分だけが生き残ってから、一度目の誕生日。
「こうして生き続けている」というのを故人と対比してみれば、至極、不思議な気持ちが胸を襲った。
***
23日。
11時を少し回った頃、多田野と一夜は連れ立ってバスへ乗り込んだ。
いつもとなんら変わりのない様子で接してくる親友に、一夜もひたすら相応の対応をしていた。
もう、あれから一年も経った。そろそろ気持ちの整理がついてもいい頃だ、と、一夜は前日から自分に言い聞かせていた。
寂しさとは、きっと違う。ただ、なんの前触れも無く訪れた理不尽な現実だとか、考えもしていなかった一年後の自分だとか。
そう言ったものに翻弄されているのだと、自分を納得させた。
「不安そうな顔しちゃって、どうしたよ?」
飄々とした多田野の言葉で、一夜ははっとした。気づかぬうちに辛辣な表情をしてしまっていたことを取り繕う。
「……といっても、今日はそういう表情するなっていう方が無理か」
また適当な冗談でも飛び出すのだろうと思っていた一夜は、予想外の多田野の言葉に驚く。
「いっちゃんの事だし、俺が今日こうやって誘った本当の理由なんて解ってると思うけどさ」
「……悪い」
「謝んないでよ、誘いに乗ってくれただけでも嬉しいしさ」
「ああ……」
「まあ、いっちゃんなりに適当に付き合ってくれればいいからさ。笑ってろとは言わないから」
「……サンキュ。なんか、悪いな、いつも」
「何言ってんの、今日はいっちゃんが思う存分人の厚意に甘えていい日ですよー?」
「……そうだな」
「っと、次だね」
バスの行先が目的の駅を表示し、多田野が言った。
「ってそういえば今日あのお姉さんいるかわかんないじゃん、しくじった」
「……おい」
一夜はとたんにいつも通りの様子へ戻る多田野へ軽くツッコミをいれつつ、そういえばこの停留所で降りるのも久しぶりだな、とぼんやり考えていた。
***
「じゃ、いっちゃんはちょっくらここで待っててねー」
目的の洋菓子屋へ着くなり、多田野が笑顔で一夜に言った。
一夜は想像していなかった展開に、呆気にとられた表情を見せる。
「……解った」
そして、少し遅れてそう返事をした。
「ははは、ごめんねー、あのお姉さん絶対いっちゃんみたいなタイプ好きだと思うんだよね」
「なんだそれ……」
「まー付き合って貰ったお礼くらいはするからさ」
「そういうのは別にいいけど」
「遠慮しない遠慮しない。じゃあ行ってくる」
ひらりと手を挙げて店の中へ消えていく多田野の姿を、一夜は店先から見送る。
(……っていうか)
もし、多田野の言う「お姉さん」の認識が一夜の想像通りなら、当人の姿は店内には見当たらなかった。
結局は全てただの口実で、目的なんて最初から何一つ無かったのかもしれないと思いつつ、一夜は徐に時計に目をやった。
時刻は12時35分を過ぎた頃。
例年とは違う今日という日は、まだ、半日を経たばかりだった。
***
暫くして、「残念だったな」と出迎えた一夜の言葉に、多田野は「しくじったねー」とさして残念そうでもない様子で答えた。
その手にはつい先程購入されたばかりの洋菓子……恐らくケーキが入った白い袋を手にしている。
「……で、目的は済んだんだよな?」
「不戦敗でしたけどねー。ってことでいっちゃん、会うことすら叶わなかった惨めな俺にもうちょっと付き合ってよ」
「まあ、付き合うのは今日一日そのつもりだったからいいけど……、どうするんだ」
「一先ずその辺ぶらつきます?バスの時間、確かまだちょっと先だよね」
「ああ……」
言いながら歩き出す多田野について一夜も歩き出す。
ちょっとぶらつく、という割に、一夜にはその足取りが確かな目的を持って進んでいるように感じた。
それも、自分が知らない場所じゃない。
あの角を曲がれば、そこは一夜も過去に何度か往復した道だ。
……藤堂の住む部屋へと向かうために通る道。
案の定その角を曲がった時、一夜はいよいよ今日これまでの一連の流れに疑わしさを持たずにはいられなくなった。
……でも、何故。
多田野がこんなことをしてまであの場所に向かう理由が一夜には解らなかった。
そもそもただ想像通りに角を曲がったというだけで、それがたまたまの可能性は十分にある。
だがこの道は、そんなただぶらつくのに好んで通るような道でもない。
「……」
多田野は何食わぬ様子で先を歩いている。一夜は何を言っていいのかも解らぬまま、ただ前を行く親友に従って歩いていた。
「そろそろいっちゃんでも不思議に思ってきた頃じゃない?」
と、唐突に多田野が言った。
「……でもってなんだよ……、なんでこの道に、とは思ったけど」
「多分目的地は予想であってるよ。こっからは俺よりいっちゃんの方が道詳しいと思うんだよね。……ってことで」
多田野は急に立ち止まると、手にしていた袋を一夜へ手渡す。
一夜は訳もわからないまま反射的にそれを受け取った。
「これは俺からの差し入れ。藤堂さんのお宅へいってらっしゃーい」
「……はあ?っていうか、お前は」
「俺はほら、このまま一緒に行っちゃうとバス間に合わなくなるから。流石に一人で待ちぼうけは嫌ですし」
「そもそも、なんで多田野が俺を藤堂さんの家まで連れてくるんだよ」
「それは行ってのお楽しみ。騙すような真似するの結構心苦しかったんだぜー?」
それは絶対嘘だろう、と一夜は内心で思うも、口にはしなかった。
「とにかくそういうことだからさ。俺はお役御免なのでこれで!」
言うなり、多田野は一方的に笑顔で手を振って駆けて行ってしまった。
呆気にとられたまま、一夜はその場に立ち尽くしてしまう。
だがはっと手にした袋の存在を思い出し、言いたい言葉を飲み込んで言われた通り藤堂の部屋へと向かうことにした。
***
一夜は久しぶりに訪れた藤堂の部屋の前で、インターホンを傍目に一息ついた。
全く連絡を取っていなかったというわけでもないが、頻繁に取っていた、という訳でもない。事前に連絡を入れなくても大丈夫 なのだろうかと思いつつ、既に部屋の前に来てしまっている。
ましてや多田野に促されてここに至り、その理由もはっきり明かされていない。持たされたこの袋が手土産だとして、きっと 何かしら互いの間で承知した経緯があるのだろうが。
一夜はインターホンを押せないままごちゃごちゃと考えを巡らせつつ、再び深く息を吐きだした。
兎に角こうしていても仕方がない、と思い直し、そのボタンを押した。
電子音の数秒後に静かにドアが開き、久方ぶりに会う人物が扉の奥からゆっくり現れた。
「……お久しぶりです、いきなりすみません」
「久しぶり。……一人?」
藤堂は一人立つ一夜の姿を見て問う。
「はい。……あの、俺、何が何だか」
その質問はやはり何か経緯があったんだろうと考えつつ、一夜は答えた。
「おー、一夜お疲れー!」
「あれ、咲人?」
部屋の奥から現れた予想外の人物に、一夜は驚いた。てっきり、多田野と藤堂の間だけで交わされた話だと思っていたのだ。
「ん?あれ?多田野さんは?」
「……」
同じような反応を見せる咲人の言葉に、一夜は内心で先程別れた親友に不満を投げかけた。
明確な理由は解らないが、恐らく正直に言えば気を使うだろうと回りくどい事をされたのは想像に容易かった。
(毎回、気を使ってるのはどっちだよ……)
感謝を通り越して呆れを感じつつ、一夜は改めて目の前の二人に向き直る。
「多田野のやつは途中で自分から帰りました。……取り敢えず、俺がなんでここに連れてこられたのか知りたいんだけど」
***
一先ず部屋へと言われるまま上がり込んで、一夜はその先の光景に再び驚いた。
主に菓子類を中心として色々と広がっているその光景は、遊びに集まったというよりは、打ち上げだとか、祝い事だとかを彷彿とさせる。
「女子の一人でもいればもうちょっと気の利いたこと出来たかもしれないんだけどねー。俺と直人さんだから」
言いながら、咲人が早々に元いた場所へ腰を下ろす。
「適当に」
「ああ、はい」
疑問が拭えないまま立ち尽くしていた所へ藤堂に言われ、一夜もいつもと同じ場所へ落ち着く。
そうして3人とも落ち着いたところで、一夜が思い出したように多田野に持たされた袋を「あいつから」とテーブルへ置いた。
「あ、ほんとにこの店行ってきたんだ。あのお姉さんいなかったっしょ?」
「いなかった。……あのさ、どこまでが仕込みなんだ」
「んーと、取り敢えず」
咲人は仕切り直すようにひと間を置いた。
「一夜、誕生日おめでとう!」
そして一転してそう言うと、藤堂もそれに続いて静かにおめでとう、と告げる。
「……え?」
一夜の第一声は疑問の声だった。
「あはは、やっぱそういう反応だよね。そもそもなんで俺たちが知ってるんだって話だし」
「……本当に、なんで知ってるんだ?多田野に聞いたとか?」
「多田野さんに聞いたわけじゃないよ。や、ある意味そうかもたけど」
「これは、篠崎君にとって気分のいい理由じゃないかもしれないけど」
藤堂はそう言うなり、一夜の前にそっと、手帳らしき物から切り取った一枚のページを差し出した。
一夜は受け取るとそのページを見る。カレンダーの一ページだった。
9月23日……紙面上の曜日は違うが、今日の日付だけが黒く塗り潰されている。
「……これ、なんだ?」
「前に、隆弘の遺品を整理してて。たまたま、見つけた」
「でも、よくこれだけで俺の誕生日だって解ったな」
「や、解らなかったよさすがに。だから心当たりないかって多田野さんに聞いてみたりしたんだけど」
「……他のページは真っ白でなんにも書かれてないのに、そこだけ不自然に塗りつぶしてあったから。 いままでのことからしても、何かあるんじゃないかって」
「まさか一夜の誕生日だとは俺も直人さんも思わなかったけどねー。隆弘がどうやって知ったのかも不明だし」
「いや、でもそこでまず俺に関することだと思うあたりもなかなかだと思うけど」
「……隆弘にとっては、篠崎君が全てだった筈だから。少なからず、身内関連では思い当たりはなかったし」
「ていうかもう、隆弘がなにかアクション起こすとしたら一夜のことしかないよねって」
「……そうか……」
一夜は再び手にした一枚へ視線を落とす。
ボールペンで黒く塗り潰された、23の数字。そのページは去年の物だ。
ただ、大事な日をマークしておく、というよりは、どうしようもない何かを塗り潰すような、そんなようにも感じられた。
あの日みた橘の記憶と相まって、誕生日を人知れず知られていた気持ち悪さよりも、やるせなさが一夜を襲った。
「とまー、俺たちが誕生日知ったのもそんな理由だし、一夜も言うと変な気使うだろうしって、多田野さんに協力してもらったわけです! ごめん、折角誕生日なのに暗い空気にしちゃって」
「いや、教えてもらって良かったよ、サンキュ」
礼と共に一夜が藤堂へ紙を差し出すと、やんわり受け取りを拒否される。
「……もし嫌じゃなければ、それは君に持ってて欲しい。嫌なら、無理にとは言わないけど」
藤堂がそう言う理由が、一夜には何となく理解できた。互いに届かなかった何かを、こんな形でも繋ぎたいのだろう。
一夜は橘からのプレゼントとして、それを受け取ることにした。
「それにしても、本当驚いた。多田野の奴が何かするだろうとは思ってたけど、二人が祝ってくれるとは思ってなかったから」
「あはは、サプライズっしょ」
「その、本当、有難うな。二人には前からこれでもかってくらい色々してもらってるけど」
困ったような、照れたような表情で一夜が告げる。
「お互い様だって!……俺たちが今こうしてるのって、一夜がいてくれたお陰だし」
「……篠崎君は、もしかしたら自分がいたせいでって思うこともあるのかもしれないけど」
「……」
「同じくらい、君に救われた人がいるのを忘れないで欲しい」
「……うん、サンキュ」
ずっと引っかかっていた何かが解け、変わりにこみ上げる何かを感じながら、一夜は改めて二人へそう告げた。
今は素直に甘んじていいのだと、そう思う。
「取り敢えず重いのはこの辺でいいっしょー、お腹すいたし!ていうか多田野さん頭数に入れてたからちょっと多いよね」
「余ったら二人で持って帰ればいいと思う」
「……本当に、結構買い込んだよな、これ」
改まって目の前に広がる光景を見て一夜が言う。
「あはは、適当に突っ込んできたしねー。直人さん聞いても両方買えばいいの一点張りなんだもん」
「まあ、こんな日だし」
「とかいって絶対どうでもいいだけだよね」
「……まあ」
二人のやりとりにその光景を想像しつつ、一夜は笑みを浮かべる。こうして、物事はだんだんと変化していくのかもしれないと思った。
「そういや多田野さんは何買ったんだろう」
咲人がテーブルに置かれた洋菓子屋の袋を見て言った。
「あー、俺も何買ったかは知らない。多田野のことだから無難な物だとは思うけど……」
言いながら一夜が箱を開ける。そこには、ショートケーキ、チョコレート、モンブランと3種類のケーキが並んでいた。
「三つってことは最初から多田野さん帰るつもりだったんだね」
覗き込んで咲人が言う。
「……そう言えば、二人は好みとか」
如何せん統一性のないその3種類を見て、一夜が二人へ聞いた。
「んー、俺はこういう系は特に。あんまり甘ったるいと無理だけど」
「藤堂さんは?」
「……これ、どれか一つは篠崎君用?」
一夜の問いに、藤堂は質問で答えた。
「え、あー……、多分、これは俺宛、だと思います」
そう言って、そのうちの一つであるモンブランを指差す。
「秋山君、どっちがいい?」
「あ、俺結構どっちでもいい感じ」
「……じゃあ、秋山君はチョコレートの方で。あそこの、そんなに甘くないから」
「ごちそうさまです!……それにしてもちょっと驚いたなー、一夜のはともかく後は同じの入ってるかと思った」
「多分これ、多田野君が選んだわけじゃないと思う。……篠崎君のはともかく」
「なんだよ二人揃ってともかくって……、まあ、俺もちょっと驚いたけど」
「直人さん、何か心当たりある感じ?」
「あそこ、店員の一人が母親と顔見知りで、俺も顔覚えられてるから」
「あ、店員さんに任せた系?」
「多分」
「なるほどー」
咲人が納得したような声を上げる。一夜もその説明で合点がいった。
恐らく藤堂は毎回ショートとチョコレートを買って帰るのだろう。そして、どちらか一つは弟へのものだったのだ。
「なんか、一夜って釣りしたら主とか釣り上げそうだよね。じゃー、ケーキの謎も解けたところで適当に始めますかー」
少々不可思議な発言を零しつつ、再度仕切り直すように咲人が言う。
こうして、3人の他愛ない時間は過ぎていった。
***
夜の帳も落ち始めた帰り道、咲人とも別れ、一夜は歩きながら多田野へメールを入れた。
内容は、お礼と少々の文句と、このあともう一度会えないか、という物だった。
数分後帰ってきた文面には、丁度良かった、と快諾する文面と、あまり反省は見受けられない謝罪の言葉が並んでいた。
***
待ち合わせ場所にした公園の入口で、多田野は一夜を出迎えた。
そのまま、二人でベンチへ移動する。
「お疲れー。どうだったよ?」
「お陰さまで楽しい一日だった、サンキュ。……だけど本当、あんまりこういう回りくどいことすんなよ」
「あはは、ごめんって」
「で、これは二人からお前に。頭数に入れてて多かった分だって言ってたけど、多分お礼も兼ねてる」
そう言って一夜は持ち帰った菓子類を多田野へ手渡した。
「別に俺は良かったんだけどな。……言わなかったのが悪いか」
言いながら多田野は受け取る。
「……で、丁度良かったって、何かまた用事があったのか?」
「あー、そうそう。はい、これ」
「……なんだよ」
一夜は手渡された、昼間受け取ったものとはまた違う洋菓子屋の袋を訝しげに受け取る。
「同じようなものになっちゃったし申し訳ないんだけどさ、今日はもういいかもしれないけど、また家の人とでも食べてよ」
「……ああ、でも、なんで」
「いっちゃんちって、毎年そこの店のなんだよね。前に小夜ちゃんが言ってたの覚えててさ」
「小夜の奴が、なんて」
「一兄が昔からそこのモンブラン好きだから多田野さんも何かあったらあげるといいよーって」
「……」
妹の言動が一寸の狂いもなく想像出来て、一夜は懐かしさともじれったさとも言い切れない感情に襲われる。
「あー、それともそっちの方はいっちゃんちの叔母さんが既に手配した感じ?」
「いや……叔母さんには事前に何が欲しいか訊かれてて、世話してもらってるだけで十分だって断ったから」
「ならよかった。本当は別な感じの、形に残るのとかもあげたかったけどいっちゃん無趣味だからさー。 また機会があったときにでも」
「いや、これ以上は本当に悪いしさ。ありがとな」
そう言って多田野へ笑ってみせるが、その笑みはどこかぎこちのないものだった。
「……うん、まあそういう反応だろうなあと思ってたんだけど、実際見ちゃうとやっぱり複雑だね」
一夜の様子を見ながら、苦笑いで多田野が言う。
「悪い……」
「いや、これは謝るの俺の方だから、ごめん」
「本当に多田野が謝る必要はないからさ。……なんだろうな」
言葉を整理するように一夜が口を閉ざす。多田野は、そんな一夜の様子を見ながら次の言葉を待っていた。
「……今日、藤堂さんにも指摘されたんだけどさ。俺、今でも家族が殺されたのは俺の所為だったんじゃないかって思うことあって」
多田野はそのまま黙って耳を傾ける。
「橘も御影も、きっかけは俺でさ。家族は誰一人として二人と関係なかった。でも殺されたのは家族で、生き残ったのは俺で。
俺がもう少し早く帰っただけでも状況は変わったかもしれないのに……、そう考えると、いつもやるせなくて」
その声が少しだけ震えていた。多田野は下方に視線を落としたまま、ただ黙って先を促している。
「……毎年何となく過ぎてた誕生日が、なんか、今年は凄く重くてさ。いっそ俺がいなかったらって、正直、ちょっと考えた」
「でも別に、家族の誰もいっちゃんのこと恨んじゃいないでしょ?」
微笑を浮かべながら、多田野がようやく口を開いた。
「それはそうだけどさ。……だけど、どうしてもそういう考えが、いつまで経っても消えない」
「まあ……それは仕方ないことだし、俺も考えるなとは言えない」
「……ごめん」
「謝らなくてもいいって。……たださ、俺としてはそう構えるより、こんな日くらい、いっちゃんには尚のこと、幸せでいて欲しいと思うんだよね」
「……」
一夜の脳裏に、「この先も幸せに」と言っていた橘の言葉が過ぎる。
「いっちゃんちの家族仲が凄くよかったのは、俺もよく知ってる。多分、みんないっちゃんだけでも生き残ってくれて良かったと思ってるよ」
「……ああ」
「大体さ、いっちゃんが自殺未遂で入院したとき、どれだけの人が心配したよ?俺はもちろんだし、秋山君とか本来全く接点無かったよね」
「そうだな……」
「いっちゃんが生き残ってくれて救われた人は多いと思うよ、見えるところでも、見えないところでも」
「……藤堂さんにも似たようなこと言われた」
「おお、藤堂さん良い事言うね。っていうかいっちゃんの兄として先越されてお兄さんちょっと悔しいですわ」
「まあ、藤堂さんは兄としても本物だしな。あと今日で俺の方が年上な」
「……超えられない壁ってやつか。なんにしても、それだけ同じこと言われるってことはやっぱりそうなんだろうね。俺も藤堂さんも実感してる 一人だろうし。秋山君も何か言ってた?」
「似たようなことは」
「うん、いっちゃんもっと胸張って生きてていいと思うよ、変なの引っ掛けない程度に」
「……サンキュ」
「胸張って生きて、後は小夜ちゃん達のことちゃんと覚えててあげてさ。気に病むより、そっちの方がいいって」
「そうだな」
「……ていうような意味合いでそのケーキ渡したんだけどまた回りくどかったよね。精進が足りないかー」
「いや、なんか、良かった」
「そう?まあいっちゃんがいいならいいけどさー。……ぼちぼち帰ります?」
「そうだな。……多田野も、ありがとな、色々。咲人がなんか凄くお前のこと尊敬してた」
「秋山君面白い子だしねー。秋山君といえばケーキ大丈夫だった?店員さんに任せちゃったからさ、藤堂さんは平気だったと思うんだけど」
「やっぱり任せたのか。……問題なかったよ、余程甘ったるくなければ大丈夫だって」
「なら安心した。……やっぱ今日色々しくじってるなー俺」
一夜は全然そんなことなかった気がするけど、と内心で相槌を打ちつつ、多田野と二人で公園を後にした。
そうしてすぐそこの分かれ道で挨拶を交わすも、またすぐに呼び止められ振り返る。
「俺、一番大事なこと言ってなかったじゃんよ」
なんだろう、と一夜は多田野の言葉を視線で促した。
「ハッピーバースデーいっちゃん!」
***
「この日にちに心当たり?」
ざわつく夕暮れのファーストフード店で、多田野は差し出された一枚の紙に視線を落とした。
手帳か何かの一ページらしく、9月と10月のカレンダーが並んでいる。
そのうちの9月の23日だけ、黒いボールペンで塗り潰されていた。年号は去年の物だ。
「無ければ無いでいいんですけど。……あれば、特に一夜関連とか」
咲人はそう説明して、オレンジのフラペチーノへ口をつけた。
藤堂は咲人の隣で多田野の様子を見守っている。
「……無いこともないけど……、これ、なんですかね」
答える前に説明を、とでも言いたげに、多田野は二人へ問いかけた。
「あー、そうですよね、すみません」
「……弟の、隆弘の遺品で。ちょっと前に見つけたもので、何か解ればと思ったんだけど」
「あー、成程。例の彼のものですか……」
言って、暫し考える素振りを見せる。
「……俺たちが知ったらまずい事?」
その様子を見て藤堂が問う。
「いや、全くそういうんじゃないんですけどね。なんで知ってるのかなと思って」
「結構プライベートな事?」
咲人が更に問う。
「いやー、いっちゃんの誕生日ですよ、この日」
「おー、マジか!」
「……確かに、知ってる理由は解らないけど」
「隆弘のそのへんのことは俺たちも知りたいくらいだからねー」
「ですよねー。……俺も最近その橘さんとやら気になってきましたよ。御影先輩の方は薄々気がついてたけど、 橘君の方は全くだったから」
言って、多田野は紙を藤堂へ返す。
「でもそっか、一夜誕生日この日なんだ……って今月じゃん」
「そうそう今月。もう少しでいっちゃんに年齢越されちゃうなー、すぐ追いつくけど」
「そっかー……」
咲人が何かを思案し出す。藤堂はそんな咲人の様子を見て、その考えが発言となるのを待っているようだった。
多田野も、咲人の考えがまとまるのを、様子を伺いながら待つ。
暫くして「多田野さん!」と、咲人が仕切り直すように言った。
「ちょっと、協力して欲しいことがあるんですけど――――……」
2012.0923
" Girl "
長い髪が揺れていた。
その髪に白く咲いた花のようなリボンは、少女が階段を一段一段登るたび、それに合わせてその身を揺らす。
人通りの少ない廊下で窮屈そうな表情をしていた瑠璃香は、廊下の先に愛しい人の姿を見つけ、その顔に少しの光明を宿した。
だが、その相手が窓から何者かを見ているのに気がつき、すぐに表情を戻す。ゆっくり近づいて自分もその視線の先を辿ってみた。
友人と歩く、一人の男子生徒。瑠璃香より一つ年上で、彼を見る目の前の先輩よりは、一つ年下だ。
先輩……陽菜が、中学の頃から想っている相手。自分には絶対に超えることのできない壁の向こう側にいる相手。
「篠崎君、きっと私の事覚えてないよね」
さみしそうな声が唐突に瑠璃香へ語りかける。
「それは、私には解りませんけど……、先輩に声をかけられても、迷惑では無いと思います」
「そうかな。でもやっぱり、勇気いるよね」
困ったようにそういう陽菜を、瑠璃香は複雑な感情で見つめた。
……自分には、絶対に想いを叶えることのできない相手。
男性恐怖症の瑠璃香は、高校に入ってすぐに出会った城崎陽菜に、恋心を抱いていた。
二人の出会いは、新入生部活勧誘会へ遡る。
「ねえねえ君、マネージャーとか興味ない?」
サッカー部の部員らしき男子生徒に突然声をかけられ、瑠璃香は小さく肩を跳ねさせた。声の主を見ると、調子の良さそうな男が笑みを浮かべて瑠璃香の返事を待っている。
「……あの」
それだけのことで瑠璃香の頭はパニックを起こしそうになる。まだいまいち慣れない学校で、様々な人で溢れ返り、賑わう校内。まさに、少し人のいない場所へ避難しようとしていた矢先のことだった。
「なんか一人バイトが忙しいからとかってマネージャー抜けちゃってさ、取り敢えず入ってくれればちょっとくらい適当でもいいし」
「……」
ぐいぐいと迫る勢いの男子生徒に、瑠璃香はただただ身を引いて言葉を探す。
断らなければ、なんて言えばいいんだろう、この男の人はなんで私にそんなことを言うんだろう。
解っているのに混乱ばかりが大きくなり、言葉なんて一つも出ては来ない。
答えなんて、様子を見れば一目瞭然なはずが中々引く様子を見せない目の前の男子生徒に、やがて瑠璃香は確かな恐怖を覚え始める。
……この人は何を考えているんだろう。
なんで、そんな子猫を愛でるような態度で話しかけてくるんだろう。
ああまるでいつか兄が見せていたような、
「っ……」
混乱した末、瑠璃香は逃げることを決断した。
踵を返して男から逃げ出す。
「あ、ちょっと待って!」
男が逃げる瑠璃香の腕を咄嗟に掴む。その瞬間だった。
「いやっ……」
瑠璃香は掴んだ男の腕を大きく振り払うと、その場に蹲ってしまった。
肩は小刻みに震え、明らかに様子がおかしいのが解る。
「あ……いや、ごめん……!」
男子生徒は突然の瑠璃香の様子に怖気付くと、一言謝罪を残してその場から去っていった。
だが、今の瑠璃香にはそんなことは把握できない。上手くものなんて考えられず、ただ、気持ちが落ち着くのを待つしかない。
どきどきと鼓動が煩かった。落ち着けようとして、余計にそれを意識してしまう。
時折生徒が横目に瑠璃香を見ていくが、それすらも瑠璃香が知る由は無かった。
掴まれた腕の感触が残っている。もう掴む人は居ないはずなのに、何度でも振り払いたくなった。
またどこからか手が伸びてくるようで、蹲って身動きが取れなくなる。
「……大丈夫?」
不意に、声がかかったのが聞こえた。優しげな、女子生徒の声だ。
解ったのに、瑠璃香は応答ができない。言葉が発せなかった。
「えーっと……」
女子生徒は思案したような声を発すると、蹲る瑠璃香の隣にそっと腰を下ろした。落ち着くまで側にいる気のようだ。
その存在に、だんだんと瑠璃香も落ち着きを取り戻していく。少しずつ、もう大丈夫なんだと警戒心が溶けていった。
蹲って十数分が経った頃、ようやく瑠璃香は隣に座り込んでいた女子生徒の姿を視界に入れた。
「あ、落ち着いたのかな」
目があったとたん、柔らかい微笑みが飛び込む。
「……あの……」
「ごめんね、なんだか大変そうだったから……迷惑だったかな」
「いえ……すみません」
静かに言うと瑠璃香は立ち上がる。合わせて、女子生徒も立ち上がった。
「何かあったの?気持ち悪くなっちゃったとか?保健室、行く?」
「いえ、大丈夫です。……もう落ち着きました」
何となく目を合わせられないまま、瑠璃香は答える。
「ならいいんだけど。ちょっとびっくりしちゃった」
「すみません」
「謝らなくていいよ、私が勝手にやったことだから」
「……」
「一年生、だよね?」
「はい」
「部活、どこにいくか決めた?」
「いえ……部活は、多分、やらないと思います」
「そっか、なんならバレー部とかどうかなって思ったんだけど、残念」
冗談のように言う。そんな何気ない会話をしているうち、瑠璃香はだんだんと打ち解けていく自分を感じた。
「……私の身長じゃ、バレーは難しいと思います」
「そんなことないよ、大事なのはやる気!」
「先輩は、バレー部なんですか?」
「うん、っていっても3年生だから、もう引退になっちゃうけど」
「そうですか……」
と、
「あ、陽菜ー!」
不意に、後方から呼び声がかかった。目の前の人物が反応したことで、彼女が「陽菜」であることを知る。
「ごめんね、呼ばれちゃった」
「いえ、あの……有難うございました」
「ううん、よかったら、またお話しようね」
またね、と陽菜は笑顔で言い残し、友人らしき人の元へ駆けていった。
瑠璃香はその背を見送る。また話をしたいと、そう思った。
のちに、瑠璃香は自分が所属した委員会で陽菜と再会することになる。
そこで改めて互いの名前を知り、だんだんと仲を深めていった。
いつも身につけている白いリボンを受け取った時には、既に、瑠璃香は陽菜のことが好きなんだと自覚していた。
だが、付き合いを重ねるその過程で、瑠璃香は知ることになる。
彼女が、とある一人の男子生徒へ、僅かながらでも想いを寄せていることを。
「篠崎君、きっと私がおんなじ学校だって事も知らないんだろうな」
冗談のように笑みを浮かべて言うが、その表情はどこか淋しげだ。
そしてそんな笑顔を見るたび、瑠璃香は思う。
私なら、こんな寂しい思いはさせないのに。
私にその権利があったなら、今すぐにでもその隙間に入り込むのに、と。
「きっと、大丈夫です。先輩は、素敵な人ですから」
だから、伝えられない想いの変わりにそういう。
せめて、励ましの言葉くらいは、勇気づけることくらいは、していたかった。
「……ありがと、瑠璃ちゃんは本当にいい子だなあ」
言うと、陽菜はぎゅっと瑠璃香を抱きしめる。こういったスキンシップは今に始まったことでは無かったが、 いまだに、瑠璃香は少し慣れなかった。
「先輩、ここ、廊下です」
「抱きつくくらい大丈夫だよ」
「……」
瑠璃香は腕の中で気づかれないように小さくため息をついた。こうしていられることが、嬉しいようで、悔しい。
同時に、愛しい人の心を射止めて尚、それに気がつくことのないその存在が、酷く気にかかった。
その数週間後、瑠璃香の耳にもあの男子生徒が事件に巻き込まれたと、風の噂で入り込んだ。
心配になったのは男子生徒ではなく、陽菜。その足は、陽菜のもとへと駆け出していた。
瑠璃香が、不可思議な塔の夢でその当人と対峙することになるのは、もう少しだけ、先の話になる。
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2012.1011
飴
それは偶々、本当に偶然だった。
世間が言う今日の名称は、クリスマス。そしてこんな日に限って、遠出の買い物が必要になった。
その、出先でのことだった。
駅前にある色鮮やかな、ツリーを模したイルミネーション。毎年目立つそれは、よく、待ち合わせの目印にされているものだった。
まあ綺麗だよな、と、なんとなく目をやった時、そこに、一人の見知った少女の姿があるのに気がついた。
――古賀瑠璃香。自分より一つ年下の、小柄な少女。
数ヶ月前、俺は男性が苦手な彼女に惹かれ、そして、紆余曲折を経て、離れることを決意した。
彼女は灰色のダッフルコートに身を包んで、恋人や友人同士で鮮やかなイルミネーションへ携帯を掲げる人々の中、一人、居心地が悪そうに立っていた。そう、彼女はいつもどこか、居心地の悪そうにしている。
多分、誰かと待ち合わせなのだろう。単純に考えれば、友人か……彼女の想い人の女性、城崎先輩だろう。
気になりつつも、俺が気にしても仕方がないことだ、と頭を切り替えて歩き出そうとした、その時だった。
「……」
古賀が、俺に気がついたのかこちらを見た。
思わず踏み出そうとした足が止まる。確実に、視線は交わっていた。
「……」
お互い、何も反応を返せないまま時が止まる。
そんな時間の中、かつて色々あっただけあって、自分は古賀にとって大分優遇されているんだろうな、と感じた。本来なら、男性が苦手な古賀が、男の俺と視線を交わらす事などある筈ない。
そのまま、どうしたものかと迷って動けずにいると、ついに、古賀が小さな会釈を見せた。
会釈――コンタクトを取ってきた……!
驚いて、間違いなく俺に対してか、と焦りながら、俺も小さく会釈を返す。勘違いだったらかなり恥ずかしい。
だがどうやら心配は杞憂だったようで、古賀は俺の返しにどこか安堵したような表情を見せた。安堵、というのも不思議だが。
そのまま古賀を見ていると、今度はなにか迷ったように周辺へ視線を泳がせ始める。なんだろう。俺から意識を放している様子はない。なにか俺に用事があるのだろうか。
やがてもう一度俺に視線を止めると、古賀は自分の少し前方の空いた場所を指さした。
「……?」
見た所、指先が示す場所には特別何も無い。
もしかして、この位置まで来いって言われてるのか……?
難解なコミュニケーションに戸惑いつつ、俺は古賀のもとへ歩き出す。
そして、少しだけ距離の開いた、先程古賀に指し示された辺りで立ち止まった。
「……ありがとうございます」
同時に、古賀が視線を落として小さく言う。どうやら解釈は間違っていなかったようだ。
「どうしたんだよ、いきなり」
「後、5分です」
「え?」
「お時間は、ありますか」
「買い物するだけだから、あるっちゃあるけど」
「じゃあ、後5分だけ、そこにいて下さい」
「……」
何かと思えば、古賀はそんな要求をくりだした。
「……なんで?」
つい疑問の言葉が出る。
「後5分で待ち合わせの相手が来ます」
「ああ、やっぱり待ち合わせなのか……。でもなんで。暇つぶし?」
それにしても俺か、という話だ。
「……30分前からここに立っているのですが、二回ほど男の人に声をかけられました」
「ああ……」
つまり、ナンパ避けにしたいのか。
こんな日だからか、少女が一人で用事も無さげに長時間立っていれば、逆に「声を待っている」と思う人間もいるのかもしれない。
贔屓目を抜きにしても、古賀は可愛い部類だと思う。解らない話ではなかった。とはいえ、もう残り5分と言えば5分なのだが。
「ていうか、なんでそんな早くから待ってるんだよ」
「あまり家にはいたくないので、約束があるときは大体早めに来て待ってるんです」
「なら、どこかの店に入るのは?」
「見てるだけだとお店の人に申し訳ないし、一人で飲食店に入る度胸は持ち合わせていません」
「……」
相変わらず気難しいというか。
「……待ち合わせの相手って、城崎先輩?」
「そうですけど、なにか」
「いや、確認してみただけ」
「……きっと城崎先輩も、来た時にあなたがいれば喜ぶと思います」
「そうか……?」
「律儀に宣言を守って下さっているお陰で、少し寂しそうです」
「……」
古賀なりの皮肉だったのだろうか。そうだとしても、そんなことを言われた所でどうすることもできない。
拗れない様に、今後は二人に関わらないと決めたのだ。
……今は、呼ばれてしまったからこうしているが。
「あれ、篠崎君?」
「……!」
そんな会話をしていると、噂をすればなんとやらと言うように、明るい声が耳に飛び込んだ。5分経つにはまだ少し早い。どうやら城崎先輩も早めに来たようだ。
「城崎先輩……どうも」
「偶然会ったの?瑠璃ちゃんが男の人といるから驚いたよ」
「少しだけ付き合ってもらってました」
「そうなんだ?……篠崎君はお買い物?あ、それともこれから誰かと約束?」
屈託のない笑顔を俺に向けて言う。
「俺はただ買い物に来てただけです。……じゃあ、待ち人も来たみたいだからこれで」
これ以上ここにいるのは気が引ける。早々に立ち去ろうと、踵を返した。
「あ」
と、古賀が呼び止めるように声を上げた。
「……ん?」
視線を向ければ、古賀がバッグの中から何かを取り出していた。
なんだろうと見ていると、取り出された古賀の手には、飴の包み紙がいくつか握られていた。
「こんなものですが、お礼です」
「ああ……別に、いいのに」
「じゃあ、一人で寂しく買い物をしている人へのクリスマスプレゼントです」
「……」
なにか腑に落ちないものを感じつつ、手のひらを差し出す。
古賀は俺の手のひらの少し上から、小さなそれらをそっと零した。事情を知らない人から見れば、おかしな受け渡し方に見えたかもしれない。
「よし、じゃあ瑠璃ちゃんのプレゼントは私がこれから沢山あげるよ」
「それは私の役目です」
「いいのいいの、今日は私が付き合って貰ってるんだしね」
「先輩が言わなければ、私が声をかけてました」
「……」
今度こそ本格的に場違いになりそうだったため、じゃあ、と改めて歩き出す。
笑顔で手を振る先輩と古賀のおじぎに見送られ、改めて目的を果たすために店へ向かった。
ポケットの中には、今しがた受け取った、イルミネーションのような色の飴玉の感触が確かにある。
もしかしたら、今日に限ってのお礼でも無いのかもしれない。なんにしても、不思議な偶然だった。
……こんな日の偶然か。
ほんの少しだけ痛いものを感じながら、改めて手の中の存在を確認する。帰りにでも食べよう。
特別といえば特別な、なんでもないと言えばなんでもない一日。
そんな日の駅前は、相変わらず、人で溢れかえっていた。
——————————
2014.12.24
2015.12.24 加筆修正
『優等生』
ある秋晴れの朝、一人の男子高校生の訃報が、緩みきっていた教室の空気を変えた。
担任の教師が告げた名前は「御影亨」。この名は教室の中で、『優等生』を表すものだった。
――いままで特にそんな素振りも無かった『優等生』の彼が、一体何故、急に自殺を?
その日、室内は疑問と好奇心でざわついた。憶測が飛び交い、様々な考えが場を満たすも、結局答えは人知れず悩んでいたのだ、という単純な結論に落ち着いた。
だが、それからほんの数日後、『優等生』だった彼に対する生徒達の認識は一転し、再び教室はざわつくこととなった。
――灰ビルの屋上から飛び降りて命を絶った『優等生』は、人の命を容易く奪える、『犯罪者』だったのだ……と。
「驚いたよな、御影の話」
放課後の教室、大半の生徒が部活や帰路へ向かった中、数人の男子生徒がだらだらと教室に残ったまま輪を作り会話をしていた。
「あー……そう?」
その輪の中心にいた生徒――千川基臣(ちかわもとおみ)は、 自分へ振られた「驚いたよな」という言葉に、平然とした様子で答えた。
千川は、金色とアッシュグレーの混じった長めの頭髪をした男子生徒だった。肩肘を机に付きながら、ダルそうに椅子へ座っている。
長髪の毛先は肩に掛かり、分けられた前髪は、いつも睡たげにしている彼の両目の左側だけ隠していた。
そんな彼の着る制服は、ネクタイが他の生徒とは一人だけ違っていた。
それは決して彼が特別な訳ではなく、彼がわざと決まりである学校指定のネクタイを着けていない為だった。つまり、千川は自ら校則を破っているのだ。
本来なら酷い問題児だと思われる筈だが、不思議なことに、彼もまた教室の中では『優等生』の部類として認識されていた。
そうなったのは恐らく、彼がこれまで大きな問題は起こしていないことと、名のある家柄の子息なこと、目に見えて優秀で、確かな成績の持ち主であったからだろう。
更に、かつては同じ『優等生』だった御影亨と一番仲が良かったことも、その印象を助長していたのかもしれない。
「そう?、って……、だってあいつ、別にそんな素振り全く無かったじゃん」
千川の隣にいた友人の一人が、平然とした返答に驚いて聞き返す。
「そうでもねえよ?だって俺、亨が何考えてたか、いまだに解んねえもん。素振りなくても頭の中どうだったかは知らねえよ」
それに対して、千川は先ほどと同じ調子で言葉を返した。
「なにそれ」
「だって千川、御影と仲良かったんじゃねえの?」
輪の中にいた茶髪の生徒が更に割り込む。
「仲良かったっていうか……、ほら、亨といると色々都合いいじゃん」
「まあな」
「基臣ひでー」
「ひでー」
「お前は手のひら返すなよ」
ころりと意見を変えた友人のノリに、茶髪の生徒が茶々を入れる。
「いやあ、でも亨も割りとそんな感じぽかったし」
そんな二人のやりとりなどお構いなしに、千川は続けた。
周りの反応にはあまり興味が無い、という様子だった。
「じゃあ千川、今回のこと別にショックでも何でもない感じ?」
「ぶっちゃけ、意外でもない」
「マジかよ」
千川の言葉にどよめきが起こる。だが、軽蔑などを抱いている人間は特に居ないようだった。
「それよかこれからどうしよっかなー、亨くんいなくなっちゃったからなー」
千川は一転して気怠そうな様子で言いつつ、頬を付いていた手を後頭部へ移すと教室の天を仰いだ。
彼が妙な杞憂を抱くのには理由がある。
まだ御影亨が教室に存在していた頃、千川は決まって御影と行動を共にしていた。
傍から見れば親友同士に見える光景だが、二人にとっては自分を着飾った、或いは便利な道具を所有するような、そんな行動原理の結果でしかなかった。
"特定の一人がいると、何かと楽だから"。そんな暗黙の了解だけは、適当な関係の中にもあったと、千川はずっと確信している。
「俺、変わりやってやろうか?」
千川の発言に、一人猫っ毛が目立つ男子生徒が冗談げに申し出た。
「馬鹿じゃねえの、お前じゃ力不足だっての」
千川はすかさず不満げな視線を発言者に向けると言う。
「あはは、ま、お前ら高成績の優等生セットで認識されてたとこあったしな」
千川の言葉に関しては特に気にしない様子で返すと、二人共素行に問題あるはずなのに、と、猫っ毛の生徒は更に笑い気味で続けた。
「だろ?あいつといるとなんかそういう所得すんだよ。それになんだかんだ亨のやつ敏いから、一緒にいて楽だったんだよな」
「やっちゃったけどな」
「な、やっちゃったけどな」
冗談でも質がいいとは言えない冗談で、軽い笑いが起こる。
そんな中、千川ただ一人だけが場の空気に溶けきれない様子で、小さく息を吐くと再び天井を見やっていた。
退屈そうな表情のその視線は、天板を超えたずっとその先を見ているようでもある。
「……あー……めんどくせえ……」
そうして呟かれたたその言葉は、誰にも拾われることなく談笑の声に掻き消えた。
めんどくさい。千川が今思う、最も適切な感情だった。
何がどうというわけじゃない。ただ、異様にめんどくさい。めんどくさい理由が解らないことが、更にめんどくさい。
一人苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる千川と、笑顔を浮かべている周りの生徒。
どこか噛み合わない空気の中、彼らの会話は進行する。彼らの時間など、大抵こんなものだった。
一人欠けても成立する。『優等生』が『犯罪者』に変わろうと、彼らには何も関係がなかった。
彼らにとっては、興味のない存在などもとより居ないも同然だったのだ。そしてそれは御影も同じだったのだろうと、皆、無意識に感じていた。
御影亨という人物が『優等生』だろうと『犯罪者』だろうと、彼を説明できるレッテルがあれば、彼らはなんでも良かった。
「それにしても、篠崎だっけ?なんでそいつだったんだろうな」
話の流れで浮上した疑問を、千川の隣の友人が切り出す。
「千川、なんか知ってる?」
「知らね。亨もそんなやつの話したことなかったし」
天を仰いでいた視線を再び輪の中に戻して答える。
「別に特別目立つやつでもなかったよな?」
「ああ。大体下級生じゃ接点も殆ど無かっただろうしなあ」
「どーでもいいだろ、もう亨いねえんだし」
「冷めてんなー」
ははは、と、猫っ毛の生徒が千川の言葉に苦笑を浮かべる。
「まあ基臣だしな」
「だしなぁ」
「……ほんと、訳わかんねーやつ……」
そんな友人達の会話にとりあう事もなく、ぽつり、と千川が虚空へ呟いた。
果たして御影亨が本当にもとは『優等生』で『犯罪者』になったのかは、彼にも解らない。
相変わらず睡たげなその瞳には、特に悲哀が混じっている様子もない。
その顔はどこまでもただ、理解不能な相手を思う表情を浮かべていた。
——
2014.1218
2015.1208 加筆修正
To Last(パラドリ橘ルート補足)
「じゃあいっちゃん、体には気を付けて」
「ああ、お前もな」
数年ぶりに日本へ帰国していた親友と、互いに笑みを添えて別れの挨拶を交わし、一人、帰るための改札へと向かう。
学生の頃、「海外の女性とネイティブな恋愛をするのもいい」などと冗談げに言っていたその人物は、高校卒業後には見事に冗談を真実へと昇華していた。
今日話を聞いた感じ仕事も順調なようだし、彼……多田野について俺が心配することは何もなさそうだった。
人の流れと共に改札を抜け、ホームへ降りる。目的の電車が来るまで、なんとなく親友と交わした数時間前の会話を思い返した。
内容といえば、近況報告や会わない数年間の出来事や、学生時代の思い出のことを懐かしんだりといった話題ばかりだ。
そんな中でも、誰かいい人でも見つけないのか、などと恋愛回りのことは暗黙の了解のように口に出さなかったあたりが、やはり変わらないな、と思う。
あいつは、大学時代にあった俺と"彼女"の話を知っている。それはほんの、短い期間の話だった。
当時多田野へ"彼女"の話をした際、誰よりも自分のことを理解しているであろう多田野にだけは、告げたのだ。
――多分俺はもう誰も本気で愛せないし、仮に好きになることがあったとしても、異性に恋愛感情は抱けないと思う、と――。
高校生の頃に起こった事件のせいで、俺は家族を失った。
そしてそれが原因で自殺未遂を図り、そのまま昏睡状態に陥った。その時、昏睡状態の意識の中で、俺は一人の少年に恋をした。
一ヶ月にも満たない、わずかな期間だ。本来なら会話を交わすこともなかった、その時既に生きてすらいなかった少年。
でも、確かに存在していた少年。それこそ、目覚めれば消えてしまう夢のように、儚いものを纏った少年だった。
とてもじゃないが、軽率に人には話せない話だ。実際、俺は今日に至るまでその事を誰にも、なにより信頼している多田野にすら、告げていない。
だから、あれから十数年以上経った今ですら、これが俺の独りよがりな妄想なのか、本当にあったことなのかなんて、解らない。
でも、誰かに聞けばきっと苦笑いで言われるのだろう。――そんなの、夢の中の想像だよ、と。
そうじゃなくとも、人に話してはいけないような気がしていた。それが逆に、信じるための動機にも繋がる気がした。
到着した電車へ乗り込む俺に続いて、同じく帰りらしい男子学生が数人、喋りながら乗り込んできた。
談笑に夢中になっている彼らを見れば、その姿に遠い昔の自分を思った。
そう、遠い。記憶だけを頼りに信じ続けるには、十分に遠い時間だった。
「……」
不意に携帯が震えて、職場の同僚からの連絡を確認する。現実の責務を証明するその文面。
今の自分は過去からも未来からも取り残されているような気がして、立っている場所が解らなくなりそうだった。
***
翌日の目覚めは、少しだけ気の重いものだった。
昨日、久しく思い返していた所為だろうか。大学時代に一時期だけ付き合っていた、あの彼女が夢に出てきた。
……とはいえ、実際には付き合っていたと言えるかは解らなかった。ただ、彼女にはきっと辛い思いをさせたのだろうと思う。
彼女との出会いは、天文サークルの中でだった。俺より一つ年下の、とても大人しい子だった。
肩より少し長めの黒髪がよく似合っていて、地味というよりは、清楚な感じだったと思う。柔らかい笑顔で裏表のない、素直な性格をしていた。
なんとなく会話が増えて、なんとなく一緒にいることも増えて、彼女に想いを告げられて、俺が受け入れる形で付き合い始めた。
最初は、俺も彼女のことが好きなのだと思っていた。
過去に少年と交わした約束の事を思えば罪悪感は覚えたが、彼はあの時「自分に似た人なら許す」とも言っていた為、一つだけ許されていた逃げ道に、やすやすと逃げ込む形になったのだと思った。
でも次第に、それは勘違いだったのだと気が付くことになった。だけどそれまでは確かに、俺は彼女へ惹かれるものを感じていた。
そして正直、そんな気の迷いに従いたくなるほどには、その時既に、俺は限界も覚えていた。
恋しくて触れたくともどこにもいない。声を聞きたくとも術ははない。想いを確認し合う方法もありはしない。ましてや、出会った事実すら俺の中にしかない。
その時俺の目の前にいた彼女は、軽い錯覚を覚える程度にはあの少年に――橘に、似ていた。
だが、付き合い始めてから季節が一つ変わる頃には、俺はただ本当に、縋れるものが欲しかっただけなのだと、気がついてしまった。
『違和感』。
似ていると感じていた彼女の数々は、次第にその名へ変化を遂げた。
抱き心地、触れた時の反応、細かい仕草、無意識の癖。
似ているからこそ、余計に違和感に繋がってしまう。
それはやがて戸惑いに繋がり、結局、いつまで経っても関係の進展しない俺に彼女が浮気の疑いまで抱き始め、結果、俺から別れを告げる形でその関係は終止符を打った。
確か、三ヶ月にも満たなかったはずだ。その後、彼女はすぐにサークルを抜けて、完全に音信不通になった。
彼女との経験で、俺は多分もう女性の体は抱けないだろうということを悟り、でもきっと同性ならいいという訳でもないのだろうと、誰かと添い遂げることを諦めた。
俺からその話を聞いた時の、多田野が苦笑交じりに発した『お疲れ様』の言葉は、いまだはっきりと耳に残っている。
***
いつも通りの業務を終え、一人簡単な買い物を済ませて、誰もいない静かな部屋へ戻る。
あまり、寂しいと感じることはなかった。多分、一人でいる時間がなければ、"そこ"へ意識を向ける時間なんてないからだろう。
自分が、いつか帰るべき場所。この命が辿り着くべき場所。
今日は一日どこか気が重かったせいか、買い物袋を置いた瞬間、無意識にため息が溢れた。同時に、帰ってきたばかりだというのに早くも明日の仕事へ意識が囚われる。
真面目な性格が幸いしてか、仕事に関してはそれなりにいい結果が出せていた。
そんなことを実感する度、これは絶対にいい話として話題にしよう、と、一人いつとも解らない日の為にストックする。
「……」
これも買い足しとけばよかったな、などとぼんやり考えながら買ってきた食料を冷蔵庫へ詰め、一度着替えて夕食の支度にかかる。
一人の、黙々とした時間。
調理の為に包丁を取り出す。……これで自身をを突き刺してみようかと考えたことは、何度かあった。
でも、それだけは絶対に駄目なのだと、生きてくれと、自分の為に死んで欲しくないと言っていた言葉を一番裏切る行為なのだと、自分を言い聞かせて思い留まってきた。
……橘と約束を交わした、あの時。
多分俺は、もう少しうまくやれるものだと思っていた。
仮に俺が彼女と暖かな家庭を築いて一生を終えたのだとしても、それが幸せな軌跡だったならば、きっと橘は笑顔で聞いてくれたんじゃないかと思う。
だけど。
……もし、その人生を歩んでいたとしたら、俺は最後にあの場所へ帰れる自信が無かった。
時が経ち、あの日から遠ざかっていくほど、解らなくなるのだ。
事実を証明してくれと、叫びたくなるのだ。あの世界が嘘じゃなかった、その証拠が欲しくなるのだ。
青い鳥を追い続けることは無駄じゃない。確かに、その言葉を聞いたのは覚えている。
あの場所へ帰るための条件として、提示されたひとつの言葉。
「……、」
……お前が、本当に連れ帰してくれるというなら。
俺は、いつまで続けていればいい?
いつまで、見えないものを信じていればいい?
お前の言う青い鳥は、信じて初めて見つかるものじゃないのか?
……この問い掛けにすら、答えて貰えないのに。
もう、俺は――
――"ピンポーン……"
「……?」
来客だった。
荷物が届く予定はない。家賃滞納なども特にしていないし、セールスが来るにはちょっと時間が遅い。なんだろうか。
わずかな不信感を覚えつつ、玄関を開ける。
「……え……」
一人の女性が立っていた。とても見覚えのある女性だ。
少しだけ雰囲気が変わった気がするが、それ以外は、あの黒髪も、大人しそうな顔つきも、最後に見た時から変わっていない。
……そう、大学時代に見た、あの時から。
でも、なんで今頃ここに?
それに、なんで俺の家を?
先程遠い日のことを思っていた所為もあり、いつかの記憶が蘇りそうだった。
―――"ずっと、追いかけてたんです。"
"わかりやすく言えば、ストーカーです。"
「やっと会えた」
「……」
発せられた声は、過ぎった声とは全く違うものだった。
そう、全然違う。俺は確かに知らない声を知っている。
でも、果たして本来の橘も本当にその声をしていたのだろうか。
全部本物なんだと俺に告げたその声を、いま、誰が証明してくれるのだろう。
「昨日駅で見かけて、家を突き止めたの。酷いよ、連絡先教えてくれないなんて」
「え……?」
……何を言ってるんだろう。
明らかに話がおかしい。
「ねえ、ここに浮気相手の人と住んでるの?」
そう言って彼女は部屋を覗き込む。
様子が普通じゃないのは明確だった。
「いや……、ちょっと、話が飲み込めないんだけど」
「またそうやってはぐらかす」
「は……?」
「ねえ、私の何が駄目だったの? なんで私捨てられちゃったの?」
「捨てたって……、そもそも、捨ててないし、何年前の話だと……」
「はぐらかさないで!」
「……!」
思い切り睨まれる。
……会話にならない。
一つ解るのは、多分、彼女の精神は正常じゃないということだ。
「ねえ、どうして? どうして私じゃ駄目なの?」
言葉とともに詰め寄られて、思わず後退する。
その間も、彼女はどうして、なんで、と、問いかけを繰り返していた。
「なんで?……ねえ…………全部、全部お前のせいだ……!! お前が私の人生を狂わせた……!!」
そして遂に、問いかけは罵倒へ変わった。俺を睨みつけるその目は、いつの間にか涙で赤く腫れている。
どうやら完全に自我を失っているらしい。
「……、」
どうするべきか。恐らく、何を言っても無駄だ。
警察に連絡するのが最善だろうか。いや、一旦人目のある所へ出るのがいいか?
「っ……、」
外へ出ようと動く。
「逃げるなッ!!」
「……!」
彼女は置いたままになっていた包丁を咄嗟に手にすると、俺に向けて、動けないように牽制した。
……殺される。
「っ……!!」
構わず走り出せば、すぐに彼女の体当たりで重なるように床へ崩れ落ちた。
彼女の黒髪に紛れて刃先が目に入り、思わず一瞬息を飲む。
「は……」
幸い、刃はどこにも当たらなかったようだ。
それにしても体当たりとは、と思うも、そういえば大人しい外見の割に結構思い切ったことをする子だった、と思い出した。
そう、確かそんな部分も橘に似ているような気がしていた。
「お前さえいなければ……!!」
彼女はすぐに体を起こし、勢いのまま俺に馬乗りになると、がむしゃらな様子で包丁を持つ両腕を振り上げた。
……言葉が出なかった。
殺される恐怖心ではなく、
「……、」
――いつか見た姿が、重なったせいだ。
あの時は目を閉じていたから、表情は見ていないけれど。
その姿が、その空間が、はっきりと目の前に現れたような気がして。
……ああ。
「あああああああああああっ!!」
大きな叫び声と共に彼女が腕を振り下ろす。
「……篠崎さんさっきから物音が……、って……?!」
胸を刃物が貫く痛みと同時に、隣の住人の声が耳に入る。
そのまま、ただ意識が遠くなった。
片隅で彼女の嗚咽が聴こえる。
ぼんやりと、全てが融けていく。
最悪の状況だった筈なのに、不思議と、心は穏やかだった。
あたりまえだ。
だって、これで、やっと、
―――。
****
2014.12 公開
2017.5.27 加筆修正・再公開